100年1月 当時 67歳、新城_公子貔に上士として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年2月 陽楽の地の方面軍を解任、首都に戻る。
100年3月 高陽北の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 陳留_盂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年3月 東來の戦いにおいて、巴郡_忌軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。
100年4月 新城_公子貔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年7月 新城_公子貔公の指示によって、地元の支持を得るべく高陽の地への赴任が決まる。
100年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
101年1月 第2次曲阜の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年2月 新興_西王j宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
101年2月 国内の淮陽_陰參に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
101年3月 新興_西王j宰相の指示によって、地元の支持を得るべく無終の地への赴任が決まる。
101年8月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、無終の地をあとにする。
101年12月 陳留_盂祕王率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年12月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり象郡_賀軍士として登用される。
102年8月 鉅鹿の地を拠点とする、汝南_鄭援上大夫揮下の南部方面軍に配属。
102年9月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
102年9月 陣中で無念の病死。 享年 18歳。
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