101年3月 地元の推薦もあり、剣閣の地で廬江_甫爽国、 邑宰に 40歳で就任。
102年2月 河上_廖艷公指揮の河上_廖軍に剣閣城を包囲される。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年5月 雍の地に赴任。
102年5月 雍の地に赴任。
102年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
104年8月 漢中_輔基の支配する絳の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから高密_廖叔軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年9月 河上_廖艷の支配する北地の地を訪れる。 この地の知者との話などから漢中_輔軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年10月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 43歳の時であった。
104年12月 予章の地を拠点とする、中山_學舎中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
105年3月 六の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 陳留_盂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年9月 藍田西の攻防戦において、河上_廖軍援軍として東郡_尹軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 東郡_尹領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年11月 建寧_委賓上士指揮のもと陳留_盂国潁陽城攻略戦に参加。
106年3月 潁陽西の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 陳留_盂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年4月 舒西の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。
106年5月 蜀郡_斯棘士指揮のもと河上_廖軍国陳城攻略戦に参加。
106年9月 国内の隴西_季老邃に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
107年1月 この月の人事で、河上_廖国、文官として処務にあたる任を司る。
107年2月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく上庸の地への赴任が決まる。
107年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく上庸の地への赴任が決まる。
107年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年9月 隴西_嗇晏士指揮のもと河上_廖軍国野王城攻略戦に参加。
107年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
107年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年1月 東安_雙眞士指揮のもと河上_廖軍国歴陽城攻略戦に参加。
108年2月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
108年3月 中山_學舎卿指揮のもと廣陵_張国曲沃城攻略戦に参加。
108年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
108年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年5月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく潁陽の地への赴任が決まる。
108年12月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、潁陽の地をあとにする。
109年2月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
109年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
109年6月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年7月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく上蔡の地への赴任が決まる。
110年2月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 上蔡の地をあとにする。
110年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく沮陽の地への赴任が決まる。
110年11月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 沮陽の地をあとにする。
110年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
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