102年3月 魏郡_將軍攸の嫡子として元服し魏郡_將軍軍卿を拝命。
102年5月 母国が廬江_甫爽国に降伏、それに従い廬江_甫爽国の幕僚を拝命。
102年9月 君主廬江_甫爽矩死亡。 悩んだ末、魏郡_將軍攸下大夫の推薦で、武キ_懸潘胤に従うことを決める。
104年5月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
104年5月 臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 父に随軍する形で陣頭に立つ、勝利。
104年5月 武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に着手。
104年8月 汝南_張盤下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
104年8月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年8月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年1月 第2次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 父に随軍する形で左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年2月 高密の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく陳留_盂軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年3月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
105年3月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年4月 第3次函谷関の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年9月 恐怖で夢から覚めるが、内容は思い出せなかった。
105年9月 第2次臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 父に随軍する形で陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年2月 武キ_懸潘胤公指揮のもと汝南_張国陝城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、陝城攻略は断念。 兵を退く。
106年11月 義陽_魏統士率いる汝南_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
106年11月 度重なる汝南_張軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年12月 臨晋の地を拠点とする方面軍は新たに鉅野_魯樹中大夫が司令官に。
107年5月 鉅鹿_梁岳中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
107年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年5月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年8月 第4次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年2月 淮陽_陰參卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年2月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年11月 東安_雙眞士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、巧妙な敵の伏兵の前に部隊は混乱、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 捕虜となり処刑。 享年 22歳。
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