105年10月 昌黎_董禮の嫡子として元服し南郡_將軍軍士を拝命。
105年11月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
106年9月 東平_張乘士指揮のもと汝南_張国絳城攻略戦に参加。
106年9月 城内への強行突入に成功、絳城を陥落させる。
106年9月 南郡_將軍軍国濮陽城攻略戦に着手。
107年3月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 中山_學舎卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年12月 敵侵攻によって孤立した曲沃の地において、 暫定自治を始めた廣陵_張咸卿に従うことになる。
108年1月 廣陵_張咸公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
108年3月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 合流先を失い、以後、廣陵_張咸公に従う。
108年8月 この月の人事で、廣陵_張国、文官として処務にあたる任を司る。
108年9月 廣陵_張混卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し晋陽の地への赴任が決まる。
108年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年10月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年1月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
109年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年1月 蒲陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年2月 蒲陽の北西部方面軍を解任、首邑に戻る。
109年5月 廣平_梁伶卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 韓原城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮の河上_廖軍に韓原城を包囲される。
110年9月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
110年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年9月 蒲陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
111年1月 廣陵_張混卿指揮のもと河上_廖国陽擢城攻略戦に参加。
111年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、陽擢城攻略は断念。 兵を退く。
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