100年1月 当時 34歳、南郡_將軍翹に士として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年2月 廣陵_張咸卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年5月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し楼煩の地への赴任が決まる。
101年1月 経済状況改善の一定の成果は上げ楼煩の地をあとにする。
101年1月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
101年3月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し沮陽の地への赴任が決まる。
101年7月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指し沮陽の地への赴任が決まる。
101年10月 息子の昌黎_董升が元服し南郡_將軍軍士を拝命。
101年11月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の支持を得るべく九原の地への赴任が決まる。
102年4月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 九原の地をあとにする。
102年6月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指し代の地への赴任が決まる。
102年8月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、代の地をあとにする。
102年10月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の支持を得るべく雲中の地への赴任が決まる。
102年11月 長沙_似延年上士率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楼煩城に立て籠もる。
103年3月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、象郡_賀軍は撤退。
103年3月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年4月 第2次沮陽の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
103年7月 南郡_將軍翹公指揮のもと象郡_賀国東垣城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、東垣城攻略は断念。 兵を退く。
103年12月 楼煩の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
104年9月 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年7月 東平_張統中大夫指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
105年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
105年10月 息子の昌黎_董畿が元服し南郡_將軍軍士を拝命。
105年11月 第3次沮陽の戦いにおいて、汝南_鄭軍と対戦。 後衛を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_鄭領沮陽を制圧。
106年2月 東平_張統中大夫指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。 功績により下大夫に昇進。
106年6月 東平_張統上大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
106年6月 城内への強行突入に成功、上党城を陥落させる。
106年11月 合浦_嬰亨宰相指揮のもと汝南_張国朝歌城攻略戦に参加。
107年3月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年6月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
107年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
107年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年12月 第4次上党の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年2月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である濮陽城に立て籠もる。
108年3月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、濮陽城は落城する。
108年3月 河上_廖国に拠点濮陽を制圧され、自らの命を絶った。 享年 43歳。
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