100年1月 当時 44歳、南郡_將軍翹に上士として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
100年2月 廣陵_張咸卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年8月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく薊の地への赴任が決まる。
100年10月 この地の漢中_棘穰邑宰の叛乱決断で、 捕縛されそうになるも追っ手を振り切り帰路につく。
100年11月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し沮陽の地への赴任が決まる。
101年3月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
101年3月 晋陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年4月 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
101年6月 晋陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年8月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指し代の地への赴任が決まる。
101年9月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
101年9月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年9月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年10月 襄国の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
101年11月 南郡_將軍翹公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
102年1月 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指し代の地への赴任が決まる。
102年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
102年5月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国平陽城攻略戦に参加。
102年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、平陽城攻略は断念。 兵を退く。
102年8月 東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
102年10月 晋陽の地を拠点とする、博陵_郭雅卿揮下の南部方面軍に配属。
103年3月 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年4月 晋陽の地を拠点とする方面軍は新たに南郡_董默上士が司令官に。
103年4月 晋陽の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
103年7月 南郡_將軍翹公指揮のもと象郡_賀国東垣城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、東垣城攻略は断念。 兵を退く。
104年2月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
104年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年2月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年5月 中山_學舎中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
104年5月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、宛城は落城する。
104年5月 河上_廖国に拠点宛を制圧され、自らの命を絶った。 享年 48歳。
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