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漢中_盛普
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-86 38 1 81 36 41
一流とは言えないが策士としての素質を持つ。能力は優れているが外見上おどおどした所があり、周りの評価はあまり良くない。

経歴    享年 48歳 < 56〜 104 >

100年1月
 当時 44歳、南郡_將軍翹に上士として仕える。
  能力アピールでの昇進であったと言われる。
   


100年2月
 廣陵_張咸卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


100年8月
 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべくの地への赴任が決まる。
  


100年10月
 この地の漢中_棘穰邑宰の叛乱決断で、
  捕縛されそうになるも追っ手を振り切り帰路につく。
   


100年11月
 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し沮陽の地への赴任が決まる。
  


101年3月
 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
  


101年3月
 晋陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、
  帰還が命ぜられる。
   


101年4月
 廣陵_張咸卿の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
  


101年6月
 晋陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、
  帰還が命ぜられる。
   


101年8月
 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指しの地への赴任が決まる。
  


101年9月
 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
   


101年9月
 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


101年9月
 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


101年10月
 襄国の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


101年11月
 南郡_將軍翹公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


102年1月
 南郡_將軍翹公の指示によって、地元の経済の向上を目指しの地への赴任が決まる。
  


102年1月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


102年5月
 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国平陽城攻略戦に参加。
  


102年5月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、平陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


102年8月
 東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
    


102年10月
 晋陽の地を拠点とする、博陵_郭雅卿揮下の南部方面軍に配属。
  


103年3月
 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。
  右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


103年4月
 晋陽の地を拠点とする方面軍は新たに南郡_董默上士が司令官に。
  


103年4月
 晋陽の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


103年7月
 南郡_將軍翹公指揮のもと象郡_賀国東垣城攻略戦に参加。
  


103年7月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、東垣城攻略は断念。
  兵を退く。
   


104年2月
 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年2月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年2月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年5月
 中山_學舎中大夫率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年5月
 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、城は落城する。
  


104年5月
 河上_廖国に拠点を制圧され、自らの命を絶った。
  享年 48歳。
   


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


廣陵_張咸 現在 45歳 廣陵_張国 公
  迎撃軍戦友
廣陵_張混 現在 18歳 廣陵_張国 卿
  
廣陵_張謨 現在 16歳 廣陵_張国 中大夫
  


敵視している武将


無し



敵視されている武将


漢中_輔異 現在 43歳 河上_廖国 士
  
昌黎_董畿 現在 21歳 廣陵_張国 士