145年1月 当時 33歳、隴西_秦演に下大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年2月 息子の桂陽_劉暉が元服し隴西_秦軍上士を拝命。
145年3月 合治の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
145年6月 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年10月 第2次合治の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河内_李軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
145年11月 導江_耿信士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
145年11月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 合治城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年7月 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
146年7月 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
146年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
148年8月 隴西_樊憲の支配する均夏の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから安豐_宋軍の人物関係をそれとなく理解する。
148年9月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、江夏_頓軍に仕官する。 彼が 37歳の時であった。
148年12月 隴西_秦匡士率いる隴西_秦軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成武城に立て籠もる。
149年4月 成武城は包囲戦の末、陥落。
149年4月 隴西_樊国に拠点成武を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され隴西_樊軍邑宰を拝命。
149年7月 端氏の地に赴任。
149年8月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
149年11月 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国歴陽城攻略戦に参加。
149年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 歴陽城攻略は断念。 兵を退く。
150年1月 息子の桂陽_劉翊が元服し隴西_樊軍士を拝命。
150年2月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
150年3月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく勤田の地への赴任が決まる。
150年6月 公隴西_樊憲に今後の忠誠を誓う。
150年10月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 勤田の地をあとにする。
150年10月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
150年12月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく便屏の地への赴任が決まる。
151年7月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 便屏の地をあとにする。
151年7月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
151年9月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく公丘の地への赴任が決まる。
151年10月 その分析力を生かし、酒泉_昊績邑宰の叛乱を予測、 決断を迫られる。
151年10月 この地の酒泉_昊績の叛乱決起にやむなく同意し、 その配下となる。
152年5月 齊郡_盆成豁公の指示によって、地元の支持を得るべく公丘の地への赴任が決まる。
152年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
152年9月 公丘の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 公丘地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
153年1月 中山_崇瑩士率いる長沙_紀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境であるキ關城に立て籠もる。
153年1月 度重なる長沙_紀軍の猛攻から キ關城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年1月 キ關城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
153年5月 敵侵攻によって孤立したキ關の地において、 暫定自治を始めた酒泉_昊績上大夫に従うことになる。
154年5月 君主酒泉_昊績死亡。 任地であったキ關の地で旗揚げをする。
154年8月 息子の桂陽_劉全が元服し桂陽_劉軍中大夫を拝命。
159年12月 キ關城において病に伏せ逝去。 享年 48歳。
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