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桂陽_劉擧
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-8 63 50 62 52 91
運と家督で地位を築く。

経歴    享年 48歳 < 112〜 159 >

145年1月
 当時 33歳、隴西_秦演に下大夫として仕える。
  主君の友人であったと言われる。
   


145年2月
 息子の桂陽_劉暉が元服し隴西_秦軍上士を拝命。
  


145年3月
 合治の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。
  右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


145年6月
 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


145年10月
 第2次合治の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河内_李軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


145年11月
 導江_耿信士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


145年11月
 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 合治城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


146年7月
 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
  


146年7月
 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
  


146年7月
 君主死亡。
  仕える国を無くし放浪する。
   


148年8月
 隴西_樊憲の支配する均夏の地を訪れる。
  泊まった宿の主人の話などから安豐_宋軍の人物関係をそれとなく理解する。
   


148年9月
 在野にて、諸国を彷徨っていた後、江夏_頓軍に仕官する。
  彼が 37歳の時であった。
   


148年12月
 隴西_秦匡士率いる隴西_秦軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成武城に立て籠もる。
   


149年4月
 成武城は包囲戦の末、陥落。
  


149年4月
 隴西_樊国に拠点成武を制圧され降伏。
  捕虜となるも助命され隴西_樊軍邑宰を拝命。
   


149年7月
 端氏の地に赴任。
  


149年8月
 能力が認められ士に推薦を受ける。
  以後、首邑勤務となる。
   


149年11月
 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国歴陽城攻略戦に参加。
  


149年11月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  歴陽城攻略は断念。
   兵を退く。
    


150年1月
 息子の桂陽_劉翊が元服し隴西_樊軍士を拝命。
  


150年2月
 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


150年3月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく勤田の地への赴任が決まる。
  


150年6月
 公隴西_樊憲に今後の忠誠を誓う。
  


150年10月
 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、
  勤田の地をあとにする。
   


150年10月
 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
  


150年12月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく便屏の地への赴任が決まる。
  


151年7月
 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、
  便屏の地をあとにする。
   


151年7月
 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
  


151年9月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく公丘の地への赴任が決まる。
  


151年10月
 その分析力を生かし、酒泉_昊績邑宰の叛乱を予測、
  決断を迫られる。
   


151年10月
 この地の酒泉_昊績の叛乱決起にやむなく同意し、
  その配下となる。
   


152年5月
 齊郡_盆成豁公の指示によって、地元の支持を得るべく公丘の地への赴任が決まる。
  


152年5月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


152年9月
 公丘の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。
  右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   公丘地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


153年1月
 中山_崇瑩士率いる長沙_紀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境であるキ關城に立て籠もる。
   


153年1月
 度重なる長沙_紀軍の猛攻から キ關城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


153年1月
 キ關城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


153年5月
 敵侵攻によって孤立したキ關の地において、
  暫定自治を始めた酒泉_昊績上大夫に従うことになる。
   


154年5月
 君主酒泉_昊績死亡。
  任地であったキ關の地で旗揚げをする。
   


154年8月
 息子の桂陽_劉全が元服し桂陽_劉軍中大夫を拝命。
  


159年12月
 キ關城において病に伏せ逝去。
  享年 48歳。
   


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


桂陽_劉全 現在 26歳 桂陽_劉国 公
  君主、方面軍への忠誠
桂陽_劉睦 現在 60歳 国 邑宰
  同派閥の好意


敵視している武将


無し



敵視されている武将


無し