146年4月 隴西_秦演の養子に迎えられ隴西_秦軍上士を拝命。
146年6月 国内の平原_翰恢に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
146年7月 巴西_相里武宰相指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に合治城を包囲される。
146年7月 河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻を防ぎきれず、合治城は落城する。
146年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
147年3月 江夏_頓武の支配する成武の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から東郡_郭軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年4月 隴西_樊憲の支配する昆郷の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから隴西_樊軍の人物関係をそれとなく理解する。
147年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、隴西_樊軍に仕官する。 彼が 49歳の時であった。
147年5月 汝陽の地を拠点とする、梁郡_李盛中大夫揮下の東部方面軍に配属。
147年6月 国内の陳郡_盧侯に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
147年8月 長社の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
147年11月 上谷_程嘉下大夫指揮のもと東郡_郭国キ關城攻略戦に参加。
148年1月 キ關城を包囲戦の末、陥落させる。
148年6月 汝陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
148年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。 兵を退く。
148年6月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年8月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく延平の地への赴任が決まる。
148年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
148年10月 汝陽の地を拠点とする、魏郡_羽式上大夫揮下の東部方面軍に配属。
148年11月 汝陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年12月 第2次聊城の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。
148年12月 江夏_頓国成武城攻略戦に着手。
148年12月 隴西_樊軍国端氏城攻略戦に着手。
148年12月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
149年1月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
149年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
149年5月 成陽の地を拠点とする、武キ_田恕中大夫揮下の南部方面軍に配属。
149年9月 江夏_頓国武功城攻略戦に着手。
149年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、武功城攻略は断念。 兵を退く。
149年10月 成陽の地の方面軍を解任、首都に戻る。
149年11月 成陽の地を拠点とする、武キ_田恕中大夫揮下の南部方面軍に配属。
149年12月 乘氏の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
150年8月 淮陽_張瑾卿率いる安豐_宋軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高樂城に立て籠もる。
150年8月 高樂城は包囲戦の末、陥落。
150年8月 安豐_宋国に高樂を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され安豐_宋軍邑宰を拝命。
152年8月 宜春の地に赴任。
153年3月 長沙_紀泰公指揮の長沙_紀軍に宜春城を包囲される。
153年3月 長沙_紀軍の猛攻を防ぎきれず、宜春城は落城する。
153年3月 長沙_紀国に宜春を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され長沙_紀軍邑宰を拝命。
153年9月 相陽の地に赴任。
154年6月 相陽城において病に伏せ逝去。 享年 57歳。
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