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中山_崇瑩
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-46 84 26 35 68 57
非常に野心家で危険な存在。自分が思っている程の実力は無い。

経歴    享年 42歳 < 122〜 163 >

145年2月
 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。
  東海_召毅の目に掛かり仕官。
   


145年3月
 勤田の地を拠点とする、濟南_賤翊下大夫揮下の西部方面軍に配属。
  


145年4月
 皐虞の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    江夏_頓領皐虞を制圧。
     


145年5月
 范陽の戦いにおいて、東海_召軍援軍として桂林_覽軍と対戦。
  右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   范陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜となり桂林_覽軍士として登用される。
     


145年6月
 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


145年7月
 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく聊城の地への赴任が決まる。
  


146年1月
 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、聊城の地をあとにする。
  


146年3月
 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく樂信の地への赴任が決まる。
  


146年4月
 君主桂林_覽訓の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、
  首邑に戻る。
   


146年4月
 君主桂林_覽訓死亡。
  特に協力者もいなかったため、悩んだ末、隴西_樊憲に従うことを決める。
   


146年5月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
  


146年5月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


146年6月
 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


146年7月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
  


146年8月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


146年11月
 大陽の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    東郡_郭領大陽を制圧。
     


146年11月
 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


146年12月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
  


147年5月
 国内の蜀郡_柏侯廣に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


147年7月
 才より努力を持って、住民支持向上の成果をかろうじて上げ、
  成陽の地をあとにする。
   


147年9月
 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく長社の地への赴任が決まる。
  


147年9月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


147年11月
 上谷_程嘉下大夫指揮のもと東郡_郭国キ關城攻略戦に参加。
  


148年1月
 キ關城を包囲戦の末、陥落させる。
  


148年4月
 第2次歴陽の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜となり安豐_宋軍士として登用される。
     


148年4月
 安豐_宋祀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


148年5月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


148年6月
 武キ_田恕中大夫指揮の隴西_樊軍に聊城城を包囲される。
  


148年6月
 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 聊城城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


148年8月
 第3次歴陽の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


148年8月
 淮陽_張瑾卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


148年10月
 淮陽_張瑾卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し歴陽の地への赴任が決まる。
  


148年11月
 武キ_田恕中大夫率いる隴西_樊軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
   


148年11月
 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


148年11月
 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


149年5月
 敦煌_令狐滂上士率いる隴西_樊軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
   


149年5月
 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


149年5月
 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


149年11月
 魏郡_羽式上大夫率いる隴西_樊軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
   


149年11月
 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


149年11月
 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


150年5月
 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。
  右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   


151年1月
 桂陽_劉翊士指揮のもと安豐_宋軍国壽光城攻略戦に参加。
  


151年1月
 国内の會稽_樊機と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
  


151年12月
 淮陽_張佐上士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
  


151年12月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  覇陵城攻略は断念。
   兵を退く。
    


152年1月
 国内の淮陽_張佐に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


152年8月
 成徳の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。
  左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
   長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜となり長沙_紀軍士として登用される。
     


152年9月
 公丘の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    齊郡_盆成領公丘を制圧。
     


152年9月
 長沙_紀泰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


152年9月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


152年10月
 昆郷の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


152年10月
 長沙_紀泰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


152年12月
 長沙_紀泰公の指示によって、地元の支持を得るべく范陽の地への赴任が決まる。
  


152年12月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


153年1月
 齊郡_盆成国キ關城攻略戦に着手。
  


153年1月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、キ關城攻略は断念。
  兵を退く。
   


153年9月
 西河_ケ湛中大夫指揮のもと安豐_宋国壽光城攻略戦に参加。
  


154年2月
 壽光東の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


154年3月
 信成東の戦いにおいて、廣漢_包軍と対戦。
  右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。
   廣漢_包領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜となり廣漢_包軍士として登用される。
     


154年6月
 廣漢_包政公指揮のもと長沙_紀国成徳城攻略戦に参加。
  


154年6月
 城内への強行突入に成功、成徳城を陥落させる。
  


154年9月
 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


154年9月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


154年11月
 廣漢_包軍国大陽城攻略戦に着手。
  


154年11月
 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


154年11月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


154年12月
 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


154年12月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


155年2月
 廣漢_包度下大夫指揮のもと長沙_紀国營陵城攻略戦に参加。
  


155年2月
 城内への強行突入に成功、營陵城を陥落させる。
  


155年5月
 廣漢_包軍国汝陽城攻略戦に着手。
  


156年7月
 均夏の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


156年9月
 西河_ケ湛公指揮の西河_ケ軍に信成城を包囲される。
  


156年11月
 九眞_滕叔起卿率いる西河_ケ軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である均夏城に立て籠もる。
   


156年11月
 度重なる西河_ケ軍の猛攻から 均夏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


156年11月
 均夏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


157年5月
 舂陵の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


157年7月
 廣漢_包度公指揮のもと西河_ケ国昆郷城攻略戦に参加。
  


157年7月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、昆郷城攻略は断念。
  


158年4月
 廣漢_包逸上士指揮のもと西河_ケ国參封城攻略戦に参加。
  


158年4月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、參封城攻略は断念。
  兵を退く。
   


158年8月
 乘氏北の攻防戦において、象郡_劉軍と対戦。
  前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    象郡_劉領乘氏を制圧。
     


158年10月
 開陽の戦いにおいて、象郡_劉軍と対戦。
  右翼騎を担い、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    象郡_劉領開陽を制圧。
     


158年10月
 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
  


158年10月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  開陽城攻略は断念。
   兵を退く。
    


159年4月
 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
  


159年4月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、開陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


159年10月
 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
  


159年10月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  開陽城攻略は断念。
   兵を退く。
    


160年4月
 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
  


160年4月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、開陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


161年11月
 廣漢_包度公指揮のもと西河_ケ国參封城攻略戦に参加。
  


161年11月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  參封城攻略は断念。
   兵を退く。
    


162年10月
 息子の中山_崇嗣が元服し廣漢_包軍士を拝命。
  


163年1月
 第2次昆郷の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   西河_ケ領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜になるを良しとせず自害。
     享年 42歳。
      


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


汝南_武嘉 現在 51歳 廣漢_包国 上士
  侵攻軍戦友
中山_崇嗣 現在 18歳 西河_ケ国 士
  
西河_ケ湛 現在 42歳 西河_ケ国 公
  侵攻軍戦友


敵視している武将


無し



敵視されている武将


廣漢_包逸 現在 25歳 廣漢_包国 公
  
呉郡_叔夜方 現在 18歳 廣漢_包国 上士
  国内の反目
蜀郡_吾熾 現在 29歳 象郡_劉国 士