145年2月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 東海_召毅の目に掛かり仕官。
145年3月 勤田の地を拠点とする、濟南_賤翊下大夫揮下の西部方面軍に配属。
145年4月 皐虞の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 江夏_頓領皐虞を制圧。
145年5月 范陽の戦いにおいて、東海_召軍援軍として桂林_覽軍と対戦。 右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 范陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり桂林_覽軍士として登用される。
145年6月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年7月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく聊城の地への赴任が決まる。
146年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、聊城の地をあとにする。
146年3月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく樂信の地への赴任が決まる。
146年4月 君主桂林_覽訓の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
146年4月 君主桂林_覽訓死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、隴西_樊憲に従うことを決める。
146年5月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
146年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
146年6月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年7月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
146年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
146年11月 大陽の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_郭領大陽を制圧。
146年11月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年12月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
147年5月 国内の蜀郡_柏侯廣に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
147年7月 才より努力を持って、住民支持向上の成果をかろうじて上げ、 成陽の地をあとにする。
147年9月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく長社の地への赴任が決まる。
147年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
147年11月 上谷_程嘉下大夫指揮のもと東郡_郭国キ關城攻略戦に参加。
148年1月 キ關城を包囲戦の末、陥落させる。
148年4月 第2次歴陽の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり安豐_宋軍士として登用される。
148年4月 安豐_宋祀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮の隴西_樊軍に聊城城を包囲される。
148年6月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 聊城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年8月 第3次歴陽の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
148年8月 淮陽_張瑾卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年10月 淮陽_張瑾卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し歴陽の地への赴任が決まる。
148年11月 武キ_田恕中大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
148年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年5月 敦煌_令狐滂上士率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年5月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年5月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年11月 魏郡_羽式上大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年5月 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
151年1月 桂陽_劉翊士指揮のもと安豐_宋軍国壽光城攻略戦に参加。
151年1月 国内の會稽_樊機と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
151年12月 淮陽_張佐上士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
151年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
152年1月 国内の淮陽_張佐に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
152年8月 成徳の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり長沙_紀軍士として登用される。
152年9月 公丘の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 齊郡_盆成領公丘を制圧。
152年9月 長沙_紀泰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
152年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
152年10月 昆郷の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年10月 長沙_紀泰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
152年12月 長沙_紀泰公の指示によって、地元の支持を得るべく范陽の地への赴任が決まる。
152年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
153年1月 齊郡_盆成国キ關城攻略戦に着手。
153年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、キ關城攻略は断念。 兵を退く。
153年9月 西河_ケ湛中大夫指揮のもと安豐_宋国壽光城攻略戦に参加。
154年2月 壽光東の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
154年3月 信成東の戦いにおいて、廣漢_包軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 廣漢_包領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり廣漢_包軍士として登用される。
154年6月 廣漢_包政公指揮のもと長沙_紀国成徳城攻略戦に参加。
154年6月 城内への強行突入に成功、成徳城を陥落させる。
154年9月 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
154年11月 廣漢_包軍国大陽城攻略戦に着手。
154年11月 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
154年12月 廣漢_包政公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
155年2月 廣漢_包度下大夫指揮のもと長沙_紀国營陵城攻略戦に参加。
155年2月 城内への強行突入に成功、營陵城を陥落させる。
155年5月 廣漢_包軍国汝陽城攻略戦に着手。
156年7月 均夏の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
156年9月 西河_ケ湛公指揮の西河_ケ軍に信成城を包囲される。
156年11月 九眞_滕叔起卿率いる西河_ケ軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である均夏城に立て籠もる。
156年11月 度重なる西河_ケ軍の猛攻から 均夏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
156年11月 均夏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
157年5月 舂陵の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
157年7月 廣漢_包度公指揮のもと西河_ケ国昆郷城攻略戦に参加。
157年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、昆郷城攻略は断念。
158年4月 廣漢_包逸上士指揮のもと西河_ケ国參封城攻略戦に参加。
158年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、參封城攻略は断念。 兵を退く。
158年8月 乘氏北の攻防戦において、象郡_劉軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 象郡_劉領乘氏を制圧。
158年10月 開陽の戦いにおいて、象郡_劉軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 象郡_劉領開陽を制圧。
158年10月 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
158年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 開陽城攻略は断念。 兵を退く。
159年4月 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
159年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、開陽城攻略は断念。 兵を退く。
159年10月 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
159年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 開陽城攻略は断念。 兵を退く。
160年4月 呉郡_叔夜懃中大夫指揮のもと象郡_劉国開陽城攻略戦に参加。
160年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、開陽城攻略は断念。 兵を退く。
161年11月 廣漢_包度公指揮のもと西河_ケ国參封城攻略戦に参加。
161年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 參封城攻略は断念。 兵を退く。
162年10月 息子の中山_崇嗣が元服し廣漢_包軍士を拝命。
163年1月 第2次昆郷の戦いにおいて、西河_ケ軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 西河_ケ領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 42歳。
|