145年2月 地元の推薦もあり、山キの地で河内_李国、 邑宰に 42歳で就任。
146年2月 この地を訪れた導江_耿信士から巴西_相里武宰相への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
146年9月 山キで反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
147年5月 民を思う馮翊_陸徽の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
147年8月 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に武城城を包囲される。
147年8月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 武城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年3月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
148年3月 武城の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
148年9月 山キ西の攻防戦において、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 山キ地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
148年10月 武陵_醜肇士指揮の代郡_韓軍に武城城を包囲される。
148年10月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 武城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年12月 公馮翊_陸徽に今後の忠誠を誓う。
149年12月 第3次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、偽の退却で一度は敵を包囲するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
150年1月 第3次平棘の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の挑発にのり一時混乱したが、立て直し、 勝利。 敵侵攻軍を撃退。
150年4月 達昌東の攻防戦において、北地_苗軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 北地_苗領達昌を制圧。
150年7月 樂安_穰武上大夫率いる鬱林_雍門軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である吾豐城に立て籠もる。
150年7月 度重なる鬱林_雍門軍の猛攻から 吾豐城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 吾豐城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年10月 代郡_韓国南皮城攻略戦に着手。
151年2月 南皮の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
151年4月 合肥の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 代郡_韓領合肥を制圧。
151年4月 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと代郡_韓国合肥城攻略戦に参加。
151年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、合肥城攻略は断念。 兵を退く。
151年7月 第3次高陽の戦いにおいて、南陽_呂軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 南陽_呂領高陽を制圧。
151年7月 東陽_杜鮑卿指揮のもと南陽_呂国高陽城攻略戦に参加。
151年11月 第4次高陽の戦いにおいて、南陽_呂軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 南陽_呂領高陽を制圧。
152年3月 第3次櫟陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 50歳。
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