145年1月 当時 33歳、河内_李純に邑宰として仕える。 主君から妬まれた将であったと言われる。
146年8月 白馬で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
146年11月 河内_李安上士指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に白馬城を包囲される。
146年11月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 白馬城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年7月 息子の瑯邪_陳丹が元服し瑯邪_陳軍卿を拝命。
147年7月 民を思う樂安_穰武の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
148年3月 樂安_穰武上大夫指揮のもと沛郡_濮陽国博望城攻略戦に参加。
148年5月 城内への強行突入に成功、博望城を陥落させる。
148年7月 離狐の戦いにおいて、樂陵_容軍と対戦。
148年10月 樂陵_容国離狐城攻略戦に着手。
148年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 離狐城攻略は断念。 兵を退く。
149年11月 濟南_茅夷国離狐城攻略戦に着手。
149年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 離狐城攻略は断念。 兵を退く。
150年4月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
150年4月 第2次安悳の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 東陽_杜領安悳を制圧。
150年8月 息子の瑯邪_陳隱が元服し鬱林_雍門軍士を拝命。
151年3月 鬱林_雍門国宰相の任に抜擢される。
151年3月 裏でかなり強引な人事工作を行っていたのが功を奏する。
151年3月 櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
151年3月 公鬱林_雍門嵩に今後の忠誠を誓う。
151年12月 汲郡_不弟宇宰相率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である昌陽城に立て籠もる。
151年12月 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 昌陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
151年12月 昌陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
152年1月 昌陽の地を拠点とする方面軍は新たに鬱林_雍門贇卿が司令官に。
152年1月 昌陽の南西部方面軍を解任、首邑に戻る。
152年3月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
152年3月 第3次櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年6月 第4次櫟陽の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 櫟陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
152年8月 青蛉の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 青蛉地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
152年12月 安平_張班卿率いる安平_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である到城城に立て籠もる。
152年12月 度重なる安平_張軍の猛攻から 到城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年6月 安平_張班卿率いる安平_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である合治城に立て籠もる。
153年6月 度重なる安平_張軍の猛攻から 合治城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年12月 安平_張班卿率いる安平_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である到城城に立て籠もる。
153年12月 度重なる安平_張軍の猛攻から 到城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年12月 到城城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
154年3月 到城の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
154年3月 西華の戦いにおいて、安平_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。
154年6月 呉郡_將梁展宰相率いる安平_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である到城城に立て籠もる。
154年7月 度重なる安平_張軍の猛攻から 到城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
154年7月 到城城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
154年9月 白馬南の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく安平_張軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
155年8月 市樂の戦いにおいて、蜀郡_餘丘軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 蜀郡_餘丘領市樂を制圧。
155年9月 廣陽の戦いにおいて、蜀郡_餘丘軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 蜀郡_餘丘領廣陽を制圧。
155年9月 安平_張班下大夫指揮のもと蜀郡_餘丘国廣陽城攻略戦に参加。
155年9月 城内への強行突入に成功、廣陽城を陥落させる。
156年11月 国内の安平_張班に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
157年2月 武陵_張国蒲坂城攻略戦に着手。
157年2月 城内への強行突入に成功、蒲坂城を陥落させる。
157年5月 国内の東平_少正蕃に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
158年4月 瑯邪_陳竒を養子に迎える。
158年8月 瑯邪_義軌中大夫率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄平城に立て籠もる。
158年8月 度重なる瑯邪_義軍の猛攻から 襄平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年8月 襄平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
159年9月 瑯邪_義習公率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である便屏城に立て籠もる。
160年1月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、瑯邪_義軍は撤退。
160年1月 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
160年1月 第3次便屏の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく瑯邪_義軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
160年2月 博望の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
160年3月 博望西の戦いにおいて、永昌_張軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
160年3月 永昌_張国博望城攻略戦に着手。
160年3月 城内への強行突入に成功、博望城を陥落させる。
160年3月 瑯邪_義習公率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である便屏城に立て籠もる。
160年7月 瑯邪_義国に拠点便屏を制圧され、自らの命を絶った。 享年 49歳。
160年7月 第4次便屏の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく瑯邪_義軍と対戦。 右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
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