100年1月 当時 59歳、巴郡_忌攸に上士として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年3月 東來の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領東來を制圧。
100年3月 南郡_鮭韜卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
104年6月 象郡_賀沛の支配する鉅鹿の地を訪れる。 城に仕えるもののこぼれ話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年7月 河上_廖艷の支配する咸陽の地を訪れる。 この地の知者との話などから漢中_輔軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年8月 象郡_賀沛の支配する薊の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年9月 陳留_盂祕の支配する六の地を訪れる。 城に仕えるもののこぼれ話などから武キ_懸潘軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年10月 陳留_盂祕の支配する炎卩の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年11月 呉郡_董輔の支配する聊城の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年12月 呉郡_董輔の支配する邯鄲の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年1月 漢中_輔基の支配する陽擢の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年2月 陳留_盂祕の支配する秣陵の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、漢中_輔軍に仕官する。 彼が 65歳の時であった。
105年4月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
105年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
105年7月 東平_張統中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
105年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年7月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
105年12月 鉅野_魯樹中大夫率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
105年12月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 梓潼_韓純士率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である虞城に立て籠もる。
106年2月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 虞城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 虞城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年6月 洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年12月 東平_張統上大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
106年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 成皋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 成皋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 67歳。
|