100年1月 当時 27歳、汝南_郭静に邑宰として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
100年12月 梓潼_賈j下大夫指揮の清河_張軍に潁陽城を包囲される。
100年12月 度重なる清河_張軍の猛攻から 潁陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年11月 君主汝南_郭静死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、金城_浩に従うことを決める。
102年11月 新興_西王j卿指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
102年11月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年5月 淮陽_陰參上大夫指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
103年8月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年1月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
105年2月 呉郡_董輔の支配する上党の地を訪れる。 この地の知者との話などから汝南_郭軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年3月 象郡_賀沛の支配する東垣の地を訪れる。 住民との会話などから呉郡_董軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年4月 新野_堪囘の支配する隴西の地を訪れる。 城に仕えるもののこぼれ話などから漢中_輔軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年5月 河上_廖艷の支配する郢の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年6月 漢中_輔基の支配する曲沃の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから呉郡_董軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年7月 象郡_賀特の支配する高密の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
105年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、漢中_輔軍に仕官する。 彼が 32歳の時であった。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
106年2月 武キ_懸潘胤公率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
106年2月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 陝城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年6月 鉅野_魯樹中大夫率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
106年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、武キ_懸潘軍は撤退。
106年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年11月 少梁の北西部方面軍を解任、首邑に戻る。
106年11月 義陽_魏統士指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
106年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
106年12月 虞城の地を拠点とする、魏郡_嚴邵上士揮下の西部方面軍に配属。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年3月 第2次洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 捕虜となり河上_廖軍士として登用される。
107年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年5月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
107年5月 国内の廣平_梁伶に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
107年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく番陽の地への赴任が決まる。
108年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、番陽の地をあとにする。
108年8月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく魯陽の地への赴任が決まる。
108年10月 息子の趙郡_黄盤が元服し河上_廖軍士を拝命。
109年3月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、魯陽の地をあとにする。
109年3月 国内の梓潼_韓憲と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
109年5月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく函谷関の地への赴任が決まる。
109年12月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、函谷関の地をあとにする。
110年2月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
110年4月 国内の新野_堪儒に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
110年9月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 夷陵の地をあとにする。
110年11月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく魯陽の地への赴任が決まる。
|