100年1月 当時 49歳、巴郡_忌攸に邑宰として仕える。 家督をついで優遇であったと言われる。
101年4月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた漢中_棘穰に仕官する。 士を拝命。
101年9月 国内の巴郡_忌眞と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
102年2月 武城の地に赴任。
102年2月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
103年1月 武城の地に赴任。
103年2月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
103年3月 公の命を受け、この地を訪れた汝南_鄭援上大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
103年6月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
103年8月 鉅鹿の地を拠点とする、漢中_棘穰上大夫揮下の南部方面軍に配属。
103年10月 彭城_左史玄卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
103年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
104年9月 彭城_左史玄卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 汝南_鄭援卿指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 任地であった東來の地で旗揚げをする。
106年11月 代郡_慶忌招を養子に迎える。
107年3月 配下の代郡_慶忌招の忠誠を得る。
108年5月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 上谷_滕晞卿指揮の河上_廖軍に黄城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 黄城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年12月 黄城において病に伏せ逝去。 享年 58歳。
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