100年3月 地元の推薦もあり、城陽の地で清河_張国、 邑宰に 35歳で就任。
100年3月 城陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_郭領城陽を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 27歳。
100年4月 公の命を受け、この地を訪れた濟北_徐沖士から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
103年4月 風洪上士指揮の河上_廖軍に州城を包囲される。
103年5月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた呉郡_董輔に仕官する。 士を拝命。
103年7月 桂陽_柏成繍卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年10月 息子の東海_沐蘭修之が元服し呉郡_董軍士を拝命。
103年11月 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し邯鄲の地への赴任が決まる。
104年2月 国内の豫章_李敞に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
104年3月 国内の京兆_趙香と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
104年4月 邯鄲の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
104年11月 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の支持を得るべく邯鄲の地への赴任が決まる。
105年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、邯鄲の地をあとにする。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
108年5月 河上_廖艷の支配する雎陽の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年6月 河上_廖艷の支配する襄国の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年7月 河上_廖艷の支配する上党の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年8月 河上_廖艷の支配する襄国の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年9月 廣陵_張咸の支配する絳の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから廣陵_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年10月 臨海_馬寓の支配する鉅鹿の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年11月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 43歳の時であった。
109年1月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
109年1月 雲中の地を拠点とする、南郡_將軍翹上大夫揮下の北部方面軍に配属。
109年10月 安邑南の攻防戦において、廣陵_張軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領安邑を制圧。
109年10月 廣川_張招士指揮のもと廣陵_張国安邑城攻略戦に参加。
109年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 安邑城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 国内の合浦_嬰顕に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
110年2月 賛同する合浦_嬰顕上士のはからいにより、 琅邪の地を拠点とする新野_堪囘卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
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