100年1月 当時 24歳、陳留_盂祕に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年2月 淮陽_張瑾宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 淮陽_張瑾宰相の指示によって、地元の支持を得るべく琅邪の地への赴任が決まる。
100年5月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 琅邪の地をあとにする。
100年7月 淮陽_張瑾宰相の指示によって、地元の経済の向上を目指し雎陽の地への赴任が決まる。
100年9月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、雎陽の地をあとにする。
100年11月 淮陽_張瑾宰相の指示によって、地元の支持を得るべく雎陽の地への赴任が決まる。
100年12月 雎陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年1月 陳留_盂祕王の指示によって、地元の支持を得るべく会稽の地への赴任が決まる。
101年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
101年6月 北海_楊徇下大夫指揮のもと新城_公子国高陽城攻略戦に参加。
101年9月 淮陽_陰參上大夫率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である琅邪城に立て籠もる。
101年9月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 琅邪城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年9月 琅邪城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年2月 国内の南郡_癸逸と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
103年7月 一人の時間、ふと自分の人生を振り返ってみる。
104年2月 北海_楊徇下大夫指揮のもと新城_公子国潁陽城攻略戦に参加。
104年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、潁陽城攻略は断念。 兵を退く。
104年5月 琅邪の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年6月 会稽の地を拠点とする南東部方面軍の総司令官に任命される。
105年3月 六の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年11月 鉅鹿_梁岳下大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である舒城に立て籠もる。
106年3月 息子の汝陰_鑢均が元服し陳留_盂朝彭城帝国軍上士を拝命。
106年4月 河上_廖国に拠点舒を制圧されるが、からくも脱出に成功。 再起にかける。
106年5月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である潁陽城に立て籠もる。
106年5月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、潁陽城は落城する。
106年5月 河上_廖国に拠点潁陽を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 31歳。
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