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南郡_董默
思想 野心 人望 智力 武力 名声
7 68 36 43 66 109
運と家督で地位を築く。

経歴    享年 51歳 < 57〜 107 >

100年1月
 当時 43歳、漢中_輔基に下大夫として仕える。
  主君を慕ってであったと言われる。
   


100年2月
 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
  


100年3月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


100年8月
 潁陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   汝南_郭領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


100年10月
 朝歌森の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  左翼騎を担い突撃により、敵将汝陰_李損上大夫を討ち取るなど、
   活躍し勝利。
    侵攻作戦は成功。
     呉郡_董領朝歌を制圧。
      


101年1月
 邯鄲南の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領邯鄲を制圧。
     功績により中大夫に昇進。
      


101年5月
 この月の人事で、漢中_輔国、文官として処務にあたる任を司る。
  


101年6月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく魯陽の地への赴任が決まる。
  


101年8月
 国内の潁川_乾岳に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


101年11月
 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、魯陽の地をあとにする。
  


102年1月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく督亢の地への赴任が決まる。
  


102年2月
 督亢の地が戦地になるとの事前連絡があり、
  帰還が命ぜられる。
   


102年5月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し洛陽の地への赴任が決まる。
  


102年5月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


102年6月
 蒲陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   捕虜となり南郡_將軍軍士として登用される。
    


102年8月
 東垣の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
    


102年9月
 漢中_棘穰上大夫率いる象郡_賀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


102年9月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年9月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


102年10月
 代の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


102年10月
 晋陽の地を拠点とする、博陵_郭雅卿揮下の南部方面軍に配属。
  


102年10月
 国内の陳郡_陰覧に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


103年3月
 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により上士に昇進。
     


103年4月
 晋陽の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
  


103年6月
 廣陵_張咸卿指揮のもと象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に参加。
  


103年6月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。
  兵を退く。
   


103年6月
 公南郡_將軍翹に今後の忠誠を誓う。
  


103年11月
 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
  前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    漢中_輔領平陽を制圧。
     


104年2月
 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国城攻略戦に参加。
  


104年9月
 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年9月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年9月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年3月
 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


105年3月
 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年3月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年7月
 東平_張統中大夫指揮のもと漢中_輔国城攻略戦に参加。
  


105年7月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城攻略は断念。
  兵を退く。
   


105年11月
 第3次沮陽の戦いにおいて、汝南_鄭軍と対戦。
  右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    汝南_鄭領沮陽を制圧。
     功績により下大夫に昇進。
      


106年2月
 東平_張統中大夫指揮のもと汝南_鄭国城攻略戦に参加。
  


106年2月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城攻略は断念。
  兵を退く。
   


106年6月
 第3次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領上党を制圧。
     功績により中大夫に昇進。
      


106年6月
 東平_張統上大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
  


106年6月
 城内への強行突入に成功、上党城を陥落させる。
  


106年7月
 国内の平原_爰泰に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


106年11月
 合浦_嬰亨宰相指揮のもと汝南_張国朝歌城攻略戦に参加。
  


107年3月
 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


107年3月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


107年3月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


107年10月
 第3次邯鄲の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により上大夫に昇進。
     


107年12月
 河上_廖国に拠点を制圧され降伏。
  捕虜となり処刑。
   享年 51歳。
    


107年12月
 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


廣陵_張咸 現在 45歳 廣陵_張国 公
  迎撃軍戦友
平原_爰泰 現在 25歳 廣陵_張国 士
  同派閥の好意
臨海_馬謙 現在 23歳 臨海_馬国 公
  親の影響


敵視している武将


無し



敵視されている武将


桂陽_柏成繍 現在 36歳 河上_廖国 中大夫
  
昌黎_董升 現在 25歳 代郡_慶忌国 士
  
魯郡_ケ起 現在 32歳 河上_廖国 邑宰
  迎撃軍敗戦による敵意 敵将