106年12月 地元の悪政に耐え兼ね、現邑宰を排除、起兵する。
106年12月 建為で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
107年3月 河上_廖国に降伏、旧領は没収されたが、下大夫の地位を拝命。
107年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
107年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
107年5月 予章の地を拠点とする、遼東_楊翼卿揮下の南東部方面軍に配属。
107年5月 国内の上谷_滕晞に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年2月 城陽の地を拠点とする、風洪卿揮下の東部方面軍に配属。
108年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。
109年1月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国安邑城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、安邑城攻略は断念。
109年5月 中山_學舎卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
111年1月 廣陵_張混卿率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
111年1月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年1月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
|