100年2月 平原_粟榮の養子に迎えられ漢中_輔軍上士を拝命。
100年2月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し函谷関の地への赴任が決まる。
100年4月 国内の臨海_馬寓に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
100年11月 経済状況改善の成果をかろうじて上げ、函谷関の地をあとにする。
101年1月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく絳の地への赴任が決まる。
101年6月 才より努力を持って、住民支持向上の成果をかろうじて上げ、 絳の地をあとにする。
101年8月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
101年10月 息子の平原_粟泰が元服し漢中_輔軍士を拝命。
102年3月 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
102年3月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年8月 東垣の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領東垣を制圧。
102年9月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
102年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 襄国城攻略は断念。 兵を退く。
103年4月 臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛騎を担い突撃により、敵将上郡_宋固上士を討ち取るなど、 奮戦するが、敗戦。 新城_公子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
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