100年1月 当時 45歳、漢中_輔基に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年3月 晋陽の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 呉郡_董領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
100年5月 魯陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_郭領魯陽を制圧。
100年5月 国内の汝南_張盤に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
100年8月 潁陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 汝南_郭領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年12月 第2次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
100年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 上党城攻略は断念。 兵を退く。
101年4月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
101年8月 襄国の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
101年11月 廬江_甫爽頌下大夫率いる廬江_甫爽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
101年11月 度重なる廬江_甫爽軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
102年3月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年8月 東垣の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領東垣を制圧。
102年10月 高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 新城_公子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
103年1月 南皮の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領南皮を制圧。 功績により中大夫に昇進。
103年4月 第2次東垣の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年6月 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
103年6月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年6月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年10月 彭城_左史玄卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
103年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年1月 国内の臨海_馬寓に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。 功績により上大夫に昇進。
104年4月 汝南_鄭援卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
104年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 第3次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。 功績により卿に昇進。
105年3月 臨海_馬寓卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
105年3月 城内への強行突入に成功、臨鯔城を陥落させる。
105年3月 合浦_董極を養子に迎える。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 以後国内の協力者であった臨海_馬寓の旗揚げに従う。
106年7月 第3次鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年4月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年4月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年10月 国内の臨海_馬謙に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年11月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年11月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年5月 東郡_尹熙中大夫指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
110年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年1月 第3次高唐の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
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