100年8月 地元の推薦もあり、新鄭の地で漢中_輔国、 邑宰に 48歳で就任。
101年10月 宜陽の地に赴任。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 だが独立する力も無く、やむ終えなく汝南_張盤に従うことを決める。
106年9月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
106年10月 少梁の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく武キ_懸潘軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年11月 陝城の地を拠点とする、潁川_乾岳下大夫揮下の西部方面軍に配属。
106年11月 義陽_魏統士指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
106年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
107年2月 淮陽_陰參卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
107年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年2月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年3月 国内の汝南_郭綏に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
107年6月 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
107年10月 第3次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 56歳。
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