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潁川_乾岳
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-38 71 49 76 0 84
運と家督で地位を築く。

経歴    享年 51歳 < 59〜 110 >

100年1月
 当時 41歳、呉郡_董竒に下大夫として仕える。
  奸臣であったと言われる。
   


100年2月
 桂陽_柏成繍卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


100年3月
 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
  


100年3月
 晋陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、
  帰還が命ぜられる。
   


100年4月
 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
  


100年9月
 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、朝歌の地をあとにする。
  


100年12月
 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し邯鄲の地への赴任が決まる。
  


101年1月
 邯鄲の地が戦地になるとの事前連絡があり、
  帰還が命ぜられる。
   


101年2月
 桂陽_柏成繍卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し鉅鹿の地への赴任が決まる。
  


101年4月
 経済状況改善の成果をかろうじて上げ、鉅鹿の地をあとにする。
  


101年6月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく少梁の地への赴任が決まる。
  


101年8月
 国内の南郡_董默に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


101年12月
 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、少梁の地をあとにする。
  


102年2月
 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく野王の地への赴任が決まる。
  


103年1月
 遼東_楊翼中大夫率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


103年1月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


103年1月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


103年2月
 の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
  


103年7月
 遼東_楊翼中大夫率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


103年7月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


103年7月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


103年11月
 第2次平陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


103年12月
 の地を拠点とする方面軍は新たに汝南_張盤下大夫が司令官に。
  


104年2月
 廣陵_張咸卿率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


104年2月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年2月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年4月
 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である野王城に立て籠もる。
   


104年4月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 野王城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


104年4月
 野王城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


104年5月
 野王の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


104年8月
 汝南_張盤下大夫指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
  


104年8月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。
  


105年3月
 漢中_輔基公指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
  


105年5月
 殷郡_梁融上士率いる河上_廖軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である洛陽城に立て籠もる。
   


105年5月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年5月
 洛陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年6月
 洛陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


105年7月
 東平_張統中大夫率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


105年7月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


105年7月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


105年8月
 の地を拠点とする方面軍は新たに汝南_張盤下大夫が司令官に。
  


105年8月
 絳の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


105年9月
 君主漢中_輔基死亡。
  特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
   


105年12月
 鉅野_魯樹中大夫率いる武キ_懸潘軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
   


105年12月
 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


106年2月
 武キ_懸潘胤公率いる武キ_懸潘軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である城に立て籠もる。
   


106年2月
 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


106年2月
 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


106年6月
 洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


106年12月
 東平_張統上大夫率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
   


106年12月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 成皋城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


106年12月
 成皋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


107年1月
 陽擢の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


107年3月
 第2次洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   


107年9月
 中山_學舎卿指揮のもと南郡_將軍国曲沃城攻略戦に参加。
  


107年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。
  兵を退く。
   


107年12月
 国内の河上_廖延に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


108年1月
 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    南郡_將軍領邯鄲を制圧。
     


108年1月
 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
  


108年1月
 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
  


108年5月
 新野_堪囘卿指揮のもと鬱林_劉国即墨城攻略戦に参加。
  


108年9月
 即墨平原の戦いにおいて、鬱林_劉軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    鬱林_劉領即墨を制圧。
     功績により中大夫に昇進。
      


108年9月
 新野_堪囘卿指揮のもと鬱林_劉国即墨城攻略戦に参加。
  


108年11月
 即墨城を包囲戦の末、陥落させる。
  


109年5月
 中山_學舎卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
  


109年5月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。
  兵を退く。
   


109年7月
 虞城の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。
  右翼を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


109年11月
 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
  


109年11月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  韓原城攻略は断念。
   兵を退く。
    


110年4月
 第2次野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。
  右翼を担い、偽の退却で敵を包囲、戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   侵攻作戦は成功。
    廣陵_張領野王を制圧。
     自身は乱戦の中、戦死。
      享年 51歳。
       


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


新野_堪囘 現在 34歳 河上_廖国 卿
  侵攻軍戦友
中山_學舎 現在 54歳 河上_廖国 卿
  迎撃軍戦友
趙郡_黄暢 現在 39歳 河上_廖国 士
  迎撃軍戦友


敵視している武将


無し



敵視されている武将


敦煌_劉石 現在 46歳 河上_廖国 士
  国内の反目
東郡_尹熙 現在 20歳 河上_廖国 中大夫
  侵攻軍戦友
廣平_梁全 現在 19歳 河上_廖国 上大夫