101年5月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 漢中_輔基の目に掛かり仕官。
101年11月 廬江_甫爽頌下大夫率いる廬江_甫爽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陝城に立て籠もる。
101年11月 度重なる廬江_甫爽軍の猛攻から 陝城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年11月 陝城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年12月 陝城の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
102年2月 博陵_郭雅卿率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である督亢城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 督亢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 督亢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年3月 漢中_棘穰公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
102年3月 国内の汝南_鄭統に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
102年8月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年1月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく東垣の地への赴任が決まる。
103年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
103年4月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年5月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく武城の地への赴任が決まる。
103年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
103年9月 象郡_賀沛公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
103年10月 象郡_賀沛公の指示によって、地元の支持を得るべく陽楽の地への赴任が決まる。
104年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。
104年4月 汝南_鄭援卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
104年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 第3次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。
105年3月 臨海_馬寓卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
105年3月 城内への強行突入に成功、臨鯔城を陥落させる。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 以後国内の協力者であった汝南_鄭援の旗揚げに従う。
105年9月 臨鯔の地を拠点とする、汝南_鄭統中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
105年11月 第3次沮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 捕虜となり処刑。 享年 29歳。
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