102年7月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 南郡_將軍翹の目に掛かり仕官。
102年11月 長沙_似延年上士率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楼煩城に立て籠もる。
103年3月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、象郡_賀軍は撤退。
103年3月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年7月 南郡_將軍翹公指揮のもと象郡_賀国東垣城攻略戦に参加。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、東垣城攻略は断念。 兵を退く。
104年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
104年9月 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年3月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 36歳。
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