104年7月 南郡_將軍翹の養子に迎えられ南郡_將軍軍上士を拝命。
104年8月 襄国の地を拠点とする、廣陵_張咸卿揮下の南部方面軍に配属。
104年9月 汝南_鄭統中大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年10月 襄国の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年11月 楼煩の地を拠点とする、廣陵_張咸卿揮下の南部方面軍に配属。
105年3月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄国城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 襄国城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 襄国城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年4月 襄国の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年7月 第2次楼煩の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと尋陽_勒国太原城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
106年7月 第3次鉅鹿の戦いにおいて、臨海_馬軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 臨海_馬領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり臨海_馬軍士として登用される。
106年8月 臨海_馬寓公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
108年4月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年4月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年10月 臨海_馬寓公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年11月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
109年5月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年11月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年5月 東郡_尹熙中大夫指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
110年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 臨海_馬寓公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
111年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
111年2月 合浦_董登卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
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