146年12月 梁郡_李盛中大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である聞喜城に立て籠もる。
147年5月 上谷_程嘉下大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高樂城に立て籠もる。
147年8月 国内の武キ_田典に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
147年10月 陳郡_盧侯下大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である覇陵城に立て籠もる。
148年1月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 覇陵城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年1月 覇陵城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年1月 息子の會稽_樊師が元服し隴西_樊軍士を拝命。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
148年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。
148年9月 隨郡_王準士指揮のもと江夏_頓国平臺城攻略戦に参加。
148年9月 城内への強行突入に成功、平臺城を陥落させる。
149年3月 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国聊城城攻略戦に参加。
149年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。
149年7月 魏郡_羽式上大夫指揮のもと江夏_頓国祁郷城攻略戦に参加。
149年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、祁郷城攻略は断念。 兵を退く。
149年11月 魏郡_羽式上大夫指揮のもと安豐_宋国歴陽城攻略戦に参加。
149年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 歴陽城攻略は断念。 兵を退く。
150年3月 言符の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 捕虜となり安豐_宋軍士として登用される。
150年5月 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 隴西_樊領始成を制圧。
150年6月 歴陽の地を拠点とする、淮陽_張瑾卿揮下の西部方面軍に配属。
151年1月 国内の中山_崇瑩と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
151年12月 淮陽_張佐上士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
151年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
152年1月 息子の會稽_樊旦が元服し安豐_宋軍士を拝命。
152年11月 第2次成徳の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
152年12月 歴陽の西部方面軍を解任、首邑に戻る。
153年1月 安豐_宋存卿指揮のもと長沙_紀国昆郷城攻略戦に参加。
153年3月 蒼梧_康遼上士率いる長沙_紀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である壽光城に立て籠もる。
153年3月 度重なる長沙_紀軍の猛攻から 壽光城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年3月 壽光城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
153年4月 壽光の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
153年6月 安豐_宋ェ公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
153年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
153年8月 樂信の地を拠点とする、淮陽_張佐上士揮下の東部方面軍に配属。
153年9月 莫松下大夫率いる長沙_紀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である樂信城に立て籠もる。
153年9月 長沙_紀軍の猛攻を防ぎきれず、樂信城は落城する。
153年9月 長沙_紀国に拠点樂信を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 35歳。
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