155年11月 敦煌_田榮の養子に迎えられ敦煌_田軍下大夫を拝命。
157年9月 呉郡_將梁展宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
157年11月 呉郡_將梁展宰相の指示によって、地元の支持を得るべく宣城の地への赴任が決まる。
158年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
158年4月 郁平の地を拠点とする、中山_學博中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
158年6月 北地_竹彝士指揮のもと代郡_韓国鉅野城攻略戦に参加。
158年6月 城内への強行突入に成功、鉅野城を陥落させる。
158年10月 中山_學景中大夫指揮のもと濟陰_張国平陶城攻略戦に参加。
158年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 平陶城攻略は断念。 兵を退く。
159年4月 国内の齊郡_顛茂と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
160年4月 第3次端氏の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 瑯邪_義領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
160年7月 国内の代郡_韓休に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
160年9月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
160年9月 第5次春穀の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 瑯邪_義領春穀を制圧。
161年10月 九眞_滕叔起卿率いる西河_ケ軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄平城に立て籠もる。
161年10月 度重なる西河_ケ軍の猛攻から 襄平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年11月 雲南_韓囂上大夫率いる楚郡_黄軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成固城に立て籠もる。
163年3月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、楚郡_黄軍は撤退。
163年3月 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
163年3月 成固南の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく楚郡_黄軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
163年4月 鬱林_雍門嵩公指揮のもと楚郡_黄国水章城攻略戦に参加。
163年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、水章城攻略は断念。 兵を退く。
163年10月 楚郡_黄訥公率いる楚郡_黄軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成固城に立て籠もる。
163年10月 度重なる楚郡_黄軍の猛攻から 成固城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年10月 成固城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
163年12月 成固の地を拠点とする方面軍は新たに襄陽_番謙之上大夫が司令官に。
164年4月 北海_唐珍上大夫率いる楚郡_黄軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成固城に立て籠もる。
164年4月 度重なる楚郡_黄軍の猛攻から 成固城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
164年4月 成固城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
164年7月 成固の西部方面軍を解任、首邑に戻る。
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