151年11月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 江夏_頓武の目に掛かり仕官。
152年3月 祁郷の地を拠点とする、瑯邪_義紀上士揮下の南東部方面軍に配属。
152年4月 国内の瑯邪_義紀に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
152年5月 君主江夏_頓武死亡。 以後国内の協力者であった瑯邪_義紀の旗揚げに従う。
153年11月 弘農_周生淵公指揮の弘農_周生軍に春穀城を包囲される。
153年11月 度重なる弘農_周生軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
154年11月 第2次覇陵の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。
154年11月 齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に着手。
154年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
155年8月 第2次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 中山_學領楡次を制圧。 功績により上士に昇進。
155年11月 第3次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
155年12月 第3次春穀の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
155年12月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
156年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
156年2月 第4次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
156年2月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
156年3月 弘農_周生淵上大夫指揮の中山_學軍に春穀城を包囲される。
156年3月 度重なる中山_學軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
156年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
156年7月 瑯邪_義習公指揮のもと中山_學国端氏城攻略戦に参加。
156年8月 弘農_周生淵上大夫率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楡次城に立て籠もる。
156年8月 度重なる中山_學軍の猛攻から 楡次城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
156年8月 楡次城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
156年11月 九江_・国沈陽城攻略戦に着手。
156年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 沈陽城攻略は断念。 兵を退く。
157年2月 第5次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
157年4月 中山_學潜公率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
157年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
157年4月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
157年7月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である楡次城に立て籠もる。
157年7月 度重なる中山_學軍の猛攻から 楡次城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
157年7月 楡次城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
157年8月 楡次の西部方面軍を解任、首邑に戻る。
158年1月 第2次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
158年1月 第6次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
158年1月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
158年4月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
158年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年4月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年4月 国内の瑯邪_義軌に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
158年5月 便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
158年6月 端氏の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
158年7月 息子の秦郡_去疾何が元服し瑯邪_義軍下大夫を拝命。
158年10月 息子の秦郡_去疾建が元服し瑯邪_義軍士を拝命。
159年1月 端氏の地を拠点とする方面軍は新たに瑯邪_義景中大夫が司令官に。
159年4月 端氏の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
159年6月 第4次春穀の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
159年9月 瑯邪_義習公指揮のもと鬱林_雍門国便屏城攻略戦に参加。
160年1月 第3次便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。 功績により上大夫に昇進。
160年3月 瑯邪_義習公指揮のもと鬱林_雍門国便屏城攻略戦に参加。
160年4月 第3次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
160年7月 第4次便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領便屏を制圧。
160年8月 第4次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
160年8月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
160年8月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年8月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
160年9月 第5次春穀の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。
160年9月 敵侵攻によって孤立した端氏の地で暫定自治を始める。
161年7月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
161年7月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年1月 第5次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
162年1月 息子の秦郡_去疾琅が元服し秦郡_去疾軍中大夫を拝命。
162年4月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年6月 息子の秦郡_去疾誕が元服し秦郡_去疾軍中大夫を拝命。
162年10月 豫章_郭幹上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年10月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年5月 濮陽_邯鄲周上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
164年9月 合流先を失い、独立を決意。
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