110年1月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖国において 河東_游冉 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ この月、河上_廖軍が代郡_慶忌軍領東來に侵攻開始。

野戦をあきらめた、代郡_慶忌軍は黄城に立て篭もった。

中山_學舎卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 代郡_慶忌招公率いる城兵に撃退され、黄城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 中山_學舎卿は黄城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

黄城は代郡_慶忌招公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領曲沃に侵攻開始。

野戦をあきらめた、廣陵_張軍は曲沃城に立て篭もった。

河上_廖艷公率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 廣陵_張咸公率いる城兵に撃退され、曲沃城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 河上_廖艷公は曲沃城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

曲沃城は廣陵_張咸公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が彭城_左史軍領南皮に侵攻開始。

野戦をあきらめた、彭城_左史軍は南皮城に立て篭もった。

上谷_滕晞卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 彭城_左史褒公率いる城兵に撃退され、南皮城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 上谷_滕晞卿は南皮城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

南皮城は彭城_左史褒公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が汝南_鄭軍領薊に侵攻開始。

東平_師軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

東平_師軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領蒲陽に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、廣陵_張軍は、すでに蒲陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 蒲陽の地で互いを捕捉する。

河上_廖軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

河上_廖軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。





◆ この月、内政の功績により、河上_廖軍 蜀郡_斯忠は、下大夫に昇進する。

ただ、この昇進に際し、桂陽_柏成繍下大夫、建寧_委賓上士、河東_司徒岐下大夫、中山_學襲上士、は快く思っていないようであった。



110年2月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将




◆ この時代を象徴する名将廣陵_張咸は曲沃の近隣諸国に決起を呼びかけた。

虞城の地がその呼びかけに応え、傘下に入ることを申し出た。

陝城の地がその呼びかけに応え、傘下に入ることを申し出た。



110年3月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将




◆ この時代を象徴する名将廣陵_張咸は曲沃の近隣諸国に決起を呼びかけた。

函谷関の地がその呼びかけに応え、傘下に入ることを申し出た。

◆ この月、孤立していた臨晋の地が暫定的に自治を始める。

河上_廖艷 支配下の賞郡_王紹邑宰は善政から、河上_廖国士の任に推薦を受け、承諾することとなる。





110年4月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ この月、廣陵_張軍が、河上_廖軍領宜陽に侵攻開始。

宜陽のは孤立しており、廣陵_張は労せずして占領を開始した。

廣陵_張軍の侵攻作戦は成功した。宜陽は廣陵_張の制圧下に置かれた。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領野王に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、廣陵_張軍は、すでに野王の地に向かっていた。

数日後、両軍は 野王の地で互いを捕捉する。

新野_堪囘卿が指揮する河上_廖軍 46382人と、廣陵_張混卿揮下、参謀 尋陽_勒耀上大夫の指揮する廣陵_張軍 120566人が激突した 第2次野王の戦いと呼ばれるこの戦いは、河上_廖軍の勝利に終わった。

廣陵_張軍五原_東里濤上士は、捕らえられ、処刑された。享年 34歳であった。

この戦いで河上_廖軍は、潁川_乾岳上大夫、 を失った。

この戦いで廣陵_張軍は、五原_東里濤、 を失った。

河上_廖軍の侵攻作戦は成功した。野王は河上_廖の制圧下に置かれた。

この戦いの功績により、河上_廖軍 桂陽_柏成繍は、中大夫に昇進する。

ただ、この昇進に際し、常山_盈鴦下大夫、東安_雙典下大夫、東郡_尹熙中大夫、らは快く思っていないようであった。

河上_廖軍 安豐_子桑博は、中大夫に昇進する。

河上_廖軍 常山_盈鴦は、中大夫に昇進する。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領洛陽に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、廣陵_張軍は、すでに洛陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 洛陽の地で互いを捕捉する。

河上_廖軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

河上_廖軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、河上_廖軍が汝南_鄭軍領薊に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、汝南_鄭軍は城を出て迎撃することを決めた。

数日後、両軍は 薊の地で互いを捕捉する。

河上_廖軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

河上_廖軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領蒲陽に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、廣陵_張軍は、すでに蒲陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 蒲陽の地で互いを捕捉する。

廣陵_張軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

野戦をあきらめた、廣陵_張軍は蒲陽城に立て篭もった。

廣平_梁伶卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_陳恢士率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。





110年5月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖軍による、廣陵_張領蒲陽城攻略は包囲開始より、 1ケ月が経とうとしている。

廣平_梁伶卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_陳恢士率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。



◆ この月、河上_廖軍が臨海_馬軍領鉅鹿に侵攻開始。

野戦をあきらめた、臨海_馬軍は鉅鹿城に立て篭もった。

東郡_尹熙中大夫率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 臨海_馬寓公率いる城兵に撃退され、鉅鹿城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 東郡_尹熙中大夫は鉅鹿城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

鉅鹿城は臨海_馬寓公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領絳に侵攻開始。

野戦をあきらめた、廣陵_張軍は絳城に立て篭もった。

風洪卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 尋陽_勒耀上大夫率いる城兵に撃退され、絳城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 風洪卿は絳城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

絳城は尋陽_勒耀上大夫の健闘により守り抜かれた。

廣陵_張咸公は、尋陽_勒耀上大夫に、その地に駐留するよう命じた。



河上_廖艷 支配下の清河_延巴邑宰は善政から、河上_廖国士の任に推薦を受け、承諾することとなる。





110年6月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 廣陵_張国において 珠崖_謝鮑 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ 河上_廖軍による、廣陵_張領蒲陽城攻略は包囲開始より、 2ケ月が経とうとしている。

廣平_梁伶卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_陳恢士率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。





110年7月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖国において 遼西_繁寔 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ 河上_廖軍による、廣陵_張領蒲陽城攻略は包囲開始より、 3ケ月が経とうとしている。

廣平_梁伶卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_陳恢士率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。



◆ この月、河上_廖軍が代郡_慶忌軍領東來に侵攻開始。

野戦をあきらめた、代郡_慶忌軍は黄城に立て篭もった。

隴西_季老混宰相率いる、河上_廖軍は城の周囲を完全に取り囲み、城を孤立させている。

それでもなお、士気に衰えの見える守備兵を、代郡_慶忌招公が良く支え、落城は免れている。



◆ この月、河上_廖軍が彭城_左史軍領南皮に侵攻開始。

野戦をあきらめた、彭城_左史軍は南皮城に立て篭もった。

中山_學舎卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 彭城_左史褒公率いる城兵に撃退され、南皮城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 中山_學舎卿は南皮城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

南皮城は彭城_左史褒公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が汝南_鄭軍領薊に侵攻開始。

野戦をあきらめた、汝南_鄭軍は薊城に立て篭もった。

上谷_滕晞卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 汝南_鄭援公率いる城兵に撃退され、薊城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 上谷_滕晞卿は薊城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

薊城は汝南_鄭援公の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖国の野王において、この地で横行する略奪や暴行に、なんら政治的処置を施さない現君主に取って代わり この地赴任の、梁郡_葉雍地方司令がついに起兵し 、一つの勢力が誕生した。

梁郡_葉雍は、さしたる知略は無いものの、人望のある人物だった。



この月の人事で、鉅野_魯軍河東_司徒岐が中大夫に昇進したことに際し、同国の武将の妬みをかうことになる。



110年8月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
梁郡_葉雍当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖国において 垣翰_閻遠 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ 河上_廖国において 永昌_ツ休 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ この月、廣陵_張軍は敵包囲を粉砕すべく 蒲陽に兵を集める。 河上_廖軍は、城の駐屯地で急襲を受ける。

数日後、両軍は 蒲陽の地で互いを捕捉する。

廣平_梁伶卿揮下、参謀 鉅鹿_梁岳中大夫が指揮する河上_廖軍 28712人と、廣陵_張咸公揮下、参謀 廣陵_張混卿の指揮する廣陵_張軍 213520人が激突した 第2次蒲陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、廣陵_張軍の勝利に終わった。

河上_廖軍鉅鹿_梁岳中大夫は、捕らえられ 廣陵_張軍、士として登用される。

河上_廖軍珠崖_魏雅上士は、捕らえられ 廣陵_張軍、士として登用される。

河上_廖軍廣川_戲陽蒋上士は、捕らえられる直前、自害した。享年 48歳であった。

河上_廖軍豫章_李敞士は、捕らえられる直前、自害した。享年 39歳であった。

この戦いで河上_廖軍は、廣川_戲陽蒋豫章_李敞蒼梧_毒綸士、 を失った。

廣陵_張軍の蒲陽城救出作戦は成功。河上_廖軍は、むなしく本土へと撤退していった。

この戦いの功績により、廣陵_張軍 鉅鹿_梁岳は、上士に昇進する。

廣陵_張軍 濟南_許韜は、下大夫に昇進する。



◆ 河上_廖軍による、代郡_慶忌領黄城攻略は包囲開始より、 1ケ月が経とうとしている。

隴西_季老混宰相率いる、河上_廖軍は城の周囲を完全に取り囲み、城を孤立させている。

それでもなお、士気に衰えの見える守備兵を、代郡_慶忌招公が良く支え、落城は免れている。





110年9月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
梁郡_葉雍当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖軍による、代郡_慶忌領黄城攻略は包囲開始より、 2ケ月が経とうとしている。

隴西_季老混宰相率いる、河上_廖軍は城の周囲を完全に取り囲み、城を孤立させている。

それでもなお、士気に衰えの見える守備兵を、代郡_慶忌招公が良く支え、落城は免れている。



◆ 梁郡_葉国と、河上_廖国は、共通の敵を、廣陵_張国であるとし、同盟関係を築く。

◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領函谷関に侵攻開始。

野戦をあきらめた、廣陵_張軍は堅城で名高い函谷関城に立て篭もった。

河上_廖延卿率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 高興_康普邑宰率いる城兵に撃退され、函谷関城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 河上_廖延卿は函谷関城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

函谷関城は高興_康普邑宰の健闘により守り抜かれた。



◆ この月、河上_廖軍が廣陵_張軍領蒲陽に侵攻開始。

野戦をあきらめた、廣陵_張軍は蒲陽城に立て篭もった。

河上_廖艷公率いる、河上_廖軍は、繰り返し城内への突入を試みた。

しかし、全て 珠崖_謝鮑士率いる城兵に撃退され、蒲陽城は持ちこたえる。



結局、河上_廖軍の攻撃はことごとく失敗し、攻略指揮官である 河上_廖艷公は蒲陽城攻略を断念。全軍に撤退を命じた。

蒲陽城は珠崖_謝鮑士の健闘により守り抜かれた。

廣陵_張咸公は、珠崖_謝鮑士に、その地に駐留するよう命じた。





110年10月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
梁郡_葉雍当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 廣陵_張国において 天水_榮虞 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ 河上_廖軍による、代郡_慶忌領黄城攻略は包囲開始より、 3ケ月が経とうとしている。

隴西_季老混宰相率いる、河上_廖軍は城の周囲を完全に取り囲み、城を孤立させている。

それでもなお、士気に衰えの見える守備兵を、代郡_慶忌招公が良く支え、落城は免れている。



◆ この月、河上_廖軍が一大決戦に打って出る。廣陵_張軍領洛陽に兵力を集結。密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、廣陵_張軍は、すでに洛陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 洛陽の地で互いを捕捉する。

河上_廖軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

河上_廖軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。





110年11月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
梁郡_葉雍当時配下武将
臨海_馬寓当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ 河上_廖国において 隴西_黄朝 という人物が仕官を求め、それが認められる。

◆ この月、代郡_慶忌軍は敵包囲を粉砕すべく 黄に兵を集める。 河上_廖軍は、城の駐屯地で急襲を受ける。

数日後、両軍は 東來の地で互いを捕捉する。

隴西_季老混宰相が指揮する河上_廖軍 19705人と、代郡_慶忌招公揮下、参謀 漢中_棘穰卿の指揮する代郡_慶忌軍 101931人が激突した 東來平原の戦いと呼ばれるこの戦いは、代郡_慶忌軍の勝利に終わった。

河上_廖軍東安_雙典下大夫は、捕らえられたが、釈放される。

代郡_慶忌軍の黄城救出作戦は成功。河上_廖軍は、むなしく本土へと撤退していった。



◆ 臨海_馬国の 臨海_馬寓公が病死 。享年 51歳、屈指の名将がこの世を去った。



◆ 臨海_馬国では、今年で 23歳となる臨海_馬謙が後継者として後を継ぐこととなった。



110年12月
河上_廖艷当時配下武将
廣陵_張咸当時配下武将
汝南_鄭援当時配下武将
梁郡_葉雍当時配下武将
臨海_馬謙当時配下武将
鉅野_魯樹当時配下武将
彭城_左史褒当時配下武将
代郡_慶忌招当時配下武将


◆ この月、河上_廖軍が代郡_慶忌軍領東來に侵攻開始。

密偵により、河上_廖軍来襲の情報を掴んでいた、代郡_慶忌軍は城を出て迎撃することを決めた。

数日後、両軍は 東來の地で互いを捕捉する。

河上_廖軍は、相手が予想を超える大軍を集結させている事に気づき、直接対決を避け撤退した。

河上_廖軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。



◆ この月、廣陵_張軍が河上_廖軍領平陽に侵攻開始。

密偵により、廣陵_張軍来襲の情報を掴んでいた、河上_廖軍は、すでに平陽の地に向かっていた。

数日後、両軍は 平陽の地で互いを捕捉する。

廣陵_張咸公揮下、参謀 珠崖_魏雅士が指揮する廣陵_張軍 51846人と、隴西_季老混宰相の指揮する河上_廖軍 30592人が激突した 第4次平陽の戦いと呼ばれるこの戦いは、河上_廖軍の勝利に終わった。

廣陵_張軍珠崖_魏雅士は、捕らえられ 河上_廖軍、士として登用される。

この戦いで河上_廖軍は、北海_翰盾士、 豫章_陳桑上士、 を失った。

廣陵_張軍の侵攻作戦は失敗に終わり、むなしく本土へと撤退していった。

この戦いの功績により、河上_廖軍 常山_盈鴦は、上大夫に昇進する。

ただ、この昇進に際し、桂陽_柏成繍中大夫、淮陽_陰越上大夫、東郡_尹熙中大夫、らは快く思っていないようであった。

河上_廖軍 東郡_尹粛は、中大夫に昇進する。





111年