100年1月 当時 29歳、陳留_盂祕に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年4月 公の命を受け、この地を訪れた北海_楊徇下大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
101年7月 公の命を受け、この地を訪れた呉郡_叔夜峻士から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
102年5月 公の命を受け、この地を訪れた沛郡_第五深中大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
102年9月 公の命を受け、この地を訪れた蜀郡_斯忠上大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
106年1月 東海で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
106年9月 民を思う陳留_盂祕の志しに触れ、手を結ぶ決断をする。
107年2月 陳西の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 陳地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり河上_廖軍士として登用される。
107年3月 城陽の地を拠点とする、風洪上大夫揮下の東部方面軍に配属。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年9月 中山_學舎卿指揮のもと南郡_將軍国曲沃城攻略戦に参加。
107年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
107年11月 国内の新野_堪端に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領邯鄲を制圧。
108年1月 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
108年1月 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
108年7月 賛同する新野_堪端中大夫のはからいにより、 琅邪の地を拠点とする新野_堪囘卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
109年1月 廣平_梁全上大夫指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
109年2月 琅邪の地の方面軍を解任、首都に戻る。
109年5月 中山_學舎卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年10月 国内の呉郡_郭敖に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年12月 息子の薛郡_劉累が元服し河上_廖軍士を拝命。
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