107年2月 地元の推薦もあり、陳の地で河上_廖国、 邑宰に 51歳で就任。
107年2月 陳西の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 陳地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 55歳。
107年6月 陳で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
107年9月 河上_廖国に降伏、旧領は没収されたが、下大夫の地位を拝命。
107年9月 国内の遼東_楊翼に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
107年11月 予章の地を拠点とする、遼東_楊翼卿揮下の南東部方面軍に配属。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年3月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年5月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく隴西の地への赴任が決まる。
108年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年7月 国内の常山_盈鴦に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
108年12月 国内の天水_革滔に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年1月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
109年5月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国絳城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
109年6月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
109年7月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく上庸の地への赴任が決まる。
109年10月 国内の薛郡_劉祚に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
110年1月 河上_廖艷公指揮のもと廣陵_張国曲沃城攻略戦に参加。
110年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 雲中の地を拠点とする、常山_盈鴦中大夫揮下の北部方面軍に配属。
110年7月 中山_學舎卿指揮のもと彭城_左史国南皮城攻略戦に参加。
111年1月 廣陵_張林中大夫率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
111年2月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 宛城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年2月 宛城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
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