104年4月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 河上_廖艷の目に掛かり仕官。
105年3月 六の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 陳留_盂領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年5月 殷郡_梁融上士指揮のもと漢中_輔国洛陽城攻略戦に参加。
105年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、洛陽城攻略は断念。 兵を退く。
105年9月 藍田西の攻防戦において、東郡_尹軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 東郡_尹領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
105年10月 櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年10月 隴西_季老混宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年12月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく夷陵の地への赴任が決まる。
106年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
106年5月 北地の地を拠点とする、中山_學舎卿揮下の北部方面軍に配属。
106年5月 上谷_滕晞上大夫指揮のもと新野_堪国雍城攻略戦に参加。
106年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。 兵を退く。
106年9月 遼東_楊翼卿指揮のもと汝南_張国陽擢城攻略戦に参加。
106年12月 敵侵攻によって孤立した北地の地において、 暫定自治を始めた中山_學舎卿に従うことになる。
107年3月 無事、領土を守り、河上_廖艷公に合流。
107年3月 この月の人事で、河上_廖国、文官として処務にあたる任を司る。
107年4月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく陳の地への赴任が決まる。
107年6月 その分析力を生かし、呉郡_郭敖邑宰の叛乱を予測、 城門を強行突破し帰路につく。
107年7月 隴西_季老混宰相の指示によって、地元の支持を得るべく上庸の地への赴任が決まる。
107年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
107年9月 北地の地を拠点とする、中山_學舎卿揮下の北部方面軍に配属。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領邯鄲を制圧。
108年1月 隴西_季老混宰相指揮のもと南郡_將軍国邯鄲城攻略戦に参加。
108年1月 邯鄲城を包囲戦の末、陥落させる。
109年1月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
109年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、廣陵_張軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により上士に昇進。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。 兵を退く。
110年5月 東郡_尹熙中大夫指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
110年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
110年9月 河上_廖艷公指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
110年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
111年1月 第3次高唐の戦いにおいて、臨海_馬軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 54歳。
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