100年1月 当時 28歳、呉郡_董竒に中大夫として仕える。 奸臣であったと言われる。
100年3月 晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上大夫に昇進。
100年4月 上党の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
100年4月 南康_盧深下大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年4月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
100年6月 鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 鉅鹿地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
100年12月 第2次上党の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年12月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年1月 邯鄲南の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。
103年10月 桂陽_柏成繍卿指揮のもと新城_公子国邯鄲城攻略戦に参加。
103年10月 城内への強行突入に成功、邯鄲城を陥落させる。
104年2月 国内の東海_沐蘭逵に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領聊城を制圧。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
105年6月 第4次聊城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 聊城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
106年1月 国内の樂浪_李粋に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
109年4月 河上_廖艷の支配する隴西の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
109年5月 彭城_左史褒の支配する南皮の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから廣陵_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
109年6月 河上_廖艷の支配する昌国の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから廣陵_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
109年7月 河上_廖艷の支配する臨鯔の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
109年8月 河上_廖艷の支配する藍田の地を訪れる。 住民との会話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
109年9月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 37歳の時であった。
109年10月 国内の東郡_尹粛に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
110年4月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
110年7月 剣閣の地を拠点とする、東郡_尹粛下大夫揮下の西部方面軍に配属。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 39歳。
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