100年1月 当時 28歳、清河_張支に士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年2月 清河_張支公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく西陵の地への赴任が決まる。
100年10月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 西陵の地をあとにする。
100年12月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく随の地への赴任が決まる。
101年6月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、随の地をあとにする。
101年8月 清河_張支公の指示によって、地元の支持を得るべく黔中の地への赴任が決まる。
102年3月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 黔中の地をあとにする。
102年5月 清河_張支公の指示によって、地元の経済の向上を目指し郢の地への赴任が決まる。
102年9月 郢の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
104年7月 南郡_將軍翹の支配する楼煩の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから新城_公子軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年8月 漢中_輔基の支配する洛陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから汝南_郭軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年9月 南郡_將軍翹の支配する楼煩の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年10月 象郡_賀沛の支配する鉅鹿の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年11月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、漢中_輔軍に仕官する。 彼が 33歳の時であった。
104年12月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
104年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
105年2月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
105年3月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
105年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
105年5月 殷郡_梁融上士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である洛陽城に立て籠もる。
105年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年5月 洛陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
105年12月 鉅野_魯樹中大夫率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である韓原城に立て籠もる。
105年12月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 梓潼_韓純士率いる武キ_懸潘軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である虞城に立て籠もる。
106年2月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 虞城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 虞城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年5月 虞城の西部方面軍を解任、首邑に戻る。
106年6月 洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年9月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に洛陽城を包囲される。
106年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 東平_張統上大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
106年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 成皋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 成皋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年2月 成皋の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
107年3月 第2次洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 捕虜となり処刑。 享年 35歳。
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