145年1月 当時 16歳、東陽_杜勝に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年2月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
146年1月 勃海_梅輯下大夫指揮の代郡_韓軍に廣望城を包囲される。
146年1月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年3月 穀昌の地に赴任。
147年3月 能力が認められ士に推薦を受ける。 以後、首邑勤務となる。
147年8月 東陽_杜勝公指揮のもと代郡_韓国城キ城攻略戦に参加。
147年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城キ城攻略は断念。 兵を退く。
148年1月 平陶の地を拠点とする、東陽_杜鮑卿揮下の東部方面軍に配属。
148年1月 河間_樂獲上大夫指揮のもと巴西_相里国吾豐城攻略戦に参加。
148年4月 吾豐城を包囲戦の末、陥落させる。
148年9月 東陽_杜鮑中大夫指揮のもと安平_張国華望城攻略戦に参加。
148年12月 華望城は停戦命令のため撤退。
148年12月 高柴の戦いにおいて、東陽_杜軍援軍として代郡_韓軍と対戦。
149年2月 東陽_杜勝公指揮のもと代郡_韓国城キ城攻略戦に参加。
149年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城キ城攻略は断念。
149年7月 東陽_杜鮑卿指揮のもと東海_召国祝其城攻略戦に参加。
149年7月 城内への強行突入に成功、祝其城を陥落させる。
149年12月 第3次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。 功績により上士に昇進。
150年1月 第3次平棘の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の挑発にのり一時混乱したが、立て直し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
150年4月 第2次安悳の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 安悳地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
150年8月 東海_季孫裔士率いる鬱林_雍門軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陰平城に立て籠もる。
150年8月 度重なる鬱林_雍門軍の猛攻から 陰平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年8月 陰平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年9月 陰平の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
151年1月 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと南陽_呂国高陽城攻略戦に参加。
151年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高陽城攻略は断念。 兵を退く。
151年6月 第2次櫟陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
151年9月 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと鬱林_雍門国櫟陽城攻略戦に参加。
151年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、櫟陽城攻略は断念。 兵を退く。
152年3月 第2次高柴の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
152年5月 平樂の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 江夏_頓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により下大夫に昇進。
152年6月 蒲吾の地を拠点とする、東陽_杜鮑卿揮下の東部方面軍に配属。
152年8月 昌陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
152年10月 第2次合肥の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 右翼を担い、偽の退却で一度は敵を包囲するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
152年11月 第6次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 代郡_韓領城キを制圧。
152年11月 東陽_杜勝公指揮のもと東陽_杜国城キ城攻略戦に参加。
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