145年1月 当時 31歳、河内_李純に邑宰として仕える。 主君から妬まれた将であったと言われる。
145年11月 代郡_韓国、代郡_韓輔公の意思に賛同することを決意。
146年1月 代郡_韓輔公指揮の代郡_韓軍に陰平城を包囲される。
146年1月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 陰平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年4月 水章の地に赴任。
147年6月 水章で反旗を掲げ、叛乱軍の指導者となる。
148年1月 象郡_許如下大夫指揮の河内_李朝昌陽帝国軍に水章城を包囲される。
148年2月 武陵_許厚士率いる河内_李朝昌陽帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である樂望城に立て籠もる。
148年2月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 樂望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年2月 樂望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年3月 樂望の南西部方面軍を解任、首邑に戻る。
148年5月 水章川の攻防戦において、城包囲に突破口を開くべく河内_李軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
148年7月 離狐の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
148年7月 樂陵_容洪公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
148年8月 水章川の攻防戦において、鬱林_雍門軍と対戦。 陣頭に立つ、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 水章地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり鬱林_雍門軍士として登用される。
148年9月 国内の樂安_穰武に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
149年11月 瑯邪_陳建下大夫指揮のもと濟南_茅夷国離狐城攻略戦に参加。
149年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 離狐城攻略は断念。 兵を退く。
150年4月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
150年4月 第2次安悳の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 東陽_杜領安悳を制圧。
150年5月 昌陽西の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
150年8月 東陽_杜国陰平城攻略戦に着手。
151年1月 馮翊_陸徽上大夫率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である安悳城に立て籠もる。
151年1月 東陽_杜軍の猛攻を防ぎきれず、安悳城は落城する。
151年1月 東陽_杜国に安悳を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され東陽_杜軍邑宰を拝命。
155年7月 母国が代郡_韓国に降伏、それに従い代郡_韓国の幕僚を拝命。
159年1月 母国が中山_學国に降伏、それに従い中山_學国の幕僚を拝命。
162年6月 天門_楊滔上士指揮の代郡_丁軍に成武城を包囲される。
162年6月 度重なる代郡_丁軍の猛攻から 成武城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年1月 弘農_錫純下大夫指揮の代郡_丁軍に成武城を包囲される。
163年1月 度重なる代郡_丁軍の猛攻から 成武城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年7月 東郡_黄超中大夫指揮の代郡_丁軍に成武城を包囲される。
163年11月 成武城において病に伏せ逝去。 享年 50歳。
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