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中地_搖愼
思想 野心 人望 智力 武力 名声
39 3 93 28 58 53
持ち前の明るさで人を引き付ける魅力にあふれる。物欲も一切なく自由奔放である。

経歴    享年 30歳 < 122〜 152 >

146年10月
 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。
  東陽_杜勝の目に掛かり仕官。
   


146年11月
 東陽_杜勝公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


146年11月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


146年12月
 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと巴西_相里国梁期城攻略戦に参加。
  


146年12月
 城内への強行突入に成功、梁期城を陥落させる。
  


147年1月
 第2次穀昌の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく代郡_韓軍と対戦。
  前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


147年2月
 穀昌の地を拠点とする、東陽_杜鮑卿揮下の北部方面軍に配属。
  


147年2月
 上谷_劉咨中大夫率いる代郡_韓軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である穀昌城に立て籠もる。
   


147年2月
 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 穀昌城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


147年2月
 穀昌城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


147年3月
 勃海_梅輯下大夫率いる代郡_韓軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣望城に立て籠もる。
   


147年3月
 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


147年3月
 廣望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


147年8月
 河間_樂獲上大夫指揮のもと巴西_相里国吾豐城攻略戦に参加。
  


147年12月
 吾豐の戦いにおいて、巴西_相里軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   巴西_相里領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


148年1月
 河間_樂獲上大夫指揮のもと巴西_相里国吾豐城攻略戦に参加。
  


148年2月
 楚郡_黄晏士指揮の代郡_韓軍に廣望城を包囲される。
  


148年2月
 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


148年4月
 吾豐城を包囲戦の末、陥落させる。
  


148年7月
 平棘の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。
  左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    江夏_頓領平棘を制圧。
     功績により上士に昇進。
      


148年10月
 第2次平棘の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


148年12月
 高柴の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
   代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


149年3月
 東陽_杜鮑卿指揮のもと代郡_韓国高柴城攻略戦に参加。
  


149年3月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高柴城攻略は断念。
  兵を退く。
   


149年7月
 国内の宣城_扶袤に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


149年9月
 安悳の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


149年12月
 第3次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
  左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
   代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     


150年1月
 第3次平棘の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。
  左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


150年4月
 第4次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    代郡_韓領城キを制圧。
     


150年4月
 宣城_扶袤下大夫指揮のもと東陽_杜国城キ城攻略戦に参加。
  


150年7月
 樂安_穰武上大夫率いる鬱林_雍門軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である吾豐城に立て籠もる。
   


150年7月
 度重なる鬱林_雍門軍の猛攻から 吾豐城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


150年7月
 吾豐城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


150年10月
 淮陽_充沖下大夫指揮のもと代郡_韓国南皮城攻略戦に参加。
  


151年2月
 南皮の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。
  前衛を担い奮戦するが、敗戦。
   代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


151年3月
 櫟陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     


151年6月
 第2次櫟陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


151年9月
 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと鬱林_雍門国櫟陽城攻略戦に参加。
  


151年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、櫟陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


151年12月
 鬱林_雍門国青蛉城攻略戦に着手。
  


151年12月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  青蛉城攻略は断念。
   兵を退く。
    


152年3月
 第3次櫟陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
   鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    捕虜になるを良しとせず自害。
     享年 30歳。
      


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


東陽_杜勝 現在 49歳 東陽_杜国 公
  配下への愛着


敵視している武将


無し



敵視されている武将


鬱林_雍門嵩 現在 44歳 鬱林_雍門国 公
  侵攻軍敗戦による敵意 君主から敵将