153年11月 臨川_張廣の嫡子として元服し瑯邪_義軍士を拝命。
154年5月 齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に着手。
154年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
154年10月 瑯邪_義習下大夫指揮のもと安豐_宋国高樂城攻略戦に参加。
154年10月 高樂城を包囲戦の末、陥落させる。
154年11月 第2次覇陵の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 齊郡_盆成領覇陵を制圧。
154年11月 秦郡_去疾亮士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
154年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
154年12月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
155年1月 瑯邪_義習公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
155年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
155年8月 第2次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 中山_學領楡次を制圧。
155年8月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
155年10月 瑯邪_義習公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
155年10月 その分析力を生かし、九江_・眞邑宰の叛乱を予測、 決断を迫られる。
155年10月 この地の九江_・眞の叛乱決起にやむなく同意し、 その配下となる。
156年11月 秦郡_去疾亮上士指揮の瑯邪_義軍に沈陽城を包囲される。
156年11月 度重なる瑯邪_義軍の猛攻から 沈陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
157年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
157年8月 東海_戚暢上士指揮の瑯邪_義軍に沈陽城を包囲される。
157年8月 度重なる瑯邪_義軍の猛攻から 沈陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年11月 第2次沈陽の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
158年11月 瑯邪_義軌中大夫指揮の瑯邪_義軍に沈陽城を包囲される。
158年11月 瑯邪_義軍の猛攻を防ぎきれず、沈陽城は落城する。
158年11月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
159年7月 鬱林_雍門嵩の支配する便屏の地を訪れる。 住民との会話などから軍の人物関係をそれとなく理解する。
159年8月 中山_學潜の支配する達昌の地を訪れる。 この地の知者との話などから濮陽_邯鄲軍の人物関係をそれとなく理解する。
159年9月 鬱林_雍門嵩の支配する襄平の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから西河_ケ軍の人物関係をそれとなく理解する。
159年10月 中山_學潜の支配する肥成の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから鬱林_雍門軍の人物関係をそれとなく理解する。
159年11月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、代郡_丁軍に仕官する。 彼が 21歳の時であった。
160年4月 代郡_丁朝中大夫指揮のもと中山_廉国華望城攻略戦に参加。
160年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、華望城攻略は断念。 兵を退く。
160年10月 代郡_丁朝中大夫指揮のもと中山_廉国華望城攻略戦に参加。
160年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 華望城攻略は断念。 兵を退く。
161年8月 第3次廣阿の戦いにおいて、遼東_楊軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 遼東_楊領廣阿を制圧。
161年8月 東郡_黄超下大夫指揮のもと遼東_楊国廣阿城攻略戦に参加。
161年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、廣阿城攻略は断念。
162年5月 東郡_黄超中大夫指揮のもと中山_學国陰平城攻略戦に参加。
162年5月 陰平城を包囲戦の末、陥落させる。
162年6月 陰平の地を拠点とする、東郡_黄超中大夫揮下の西部方面軍に配属。
162年10月 天門_楊昌士指揮のもと代郡_丁軍国朗陵城攻略戦に参加。
163年1月 弘農_錫純下大夫指揮のもと中山_學国成武城攻略戦に参加。
163年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、成武城攻略は断念。 兵を退く。
163年7月 公代郡_丁擧に今後の忠誠を誓う。
163年12月 東郡_黄翼下大夫指揮のもと中山_學国成武城攻略戦に参加。
163年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 成武城攻略は断念。 兵を退く。
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