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東海_戚暢
思想 野心 人望 智力 武力 名声
77 25 28 57 69 62
運と家督で地位を築く。

経歴    現在 27歳 秦郡_去疾国 中大夫

153年4月
 東海_戚黄の嫡子として元服し瑯邪_義軍士を拝命。
  


153年5月
 瑯邪_義紀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


153年6月
 瑯邪_義紀公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
  


153年6月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


153年11月
 瑯邪_義紀公指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
  


153年11月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  覇陵城攻略は断念。
   兵を退く。
    


153年11月
 弘農_周生淵公指揮の弘農_周生軍に春穀城を包囲される。
  


153年11月
 度重なる弘農_周生軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


154年1月
 瑯邪_義紀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


154年2月
 瑯邪_義紀公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
  


154年2月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、
  前線の武官としての活躍を期待される。
   


154年5月
 臨川_張玄士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
  


154年5月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、覇陵城攻略は断念。
  兵を退く。
   


154年11月
 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...


154年11月
 第2次覇陵の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   侵攻作戦は成功。
    齊郡_盆成領覇陵を制圧。
     


154年11月
 秦郡_去疾亮士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
  


154年11月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  覇陵城攻略は断念。
   兵を退く。
    


155年8月
 第2次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    中山_學領楡次を制圧。
     


155年11月
 第3次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  右翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


155年12月
 第3次春穀の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により上士に昇進。
     


155年12月
 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


156年1月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


156年2月
 第4次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  右翼騎を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


156年2月
 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
  


156年3月
 弘農_周生淵上大夫指揮の中山_學軍に春穀城を包囲される。
  


156年3月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


156年4月
 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
  


156年7月
 瑯邪_義習公指揮のもと中山_學国端氏城攻略戦に参加。
  


156年7月
 端氏城を包囲戦の末、陥落させる。
  


156年11月
 楚郡_黄先下大夫指揮のもと齊郡_盆成国便屏城攻略戦に参加。
  


156年11月
 便屏城を包囲戦の末、陥落させる。
  


157年4月
 中山_學潜公率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
   


157年4月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


157年4月
 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


157年8月
 九江_・国沈陽城攻略戦に着手。
  


157年8月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、沈陽城攻略は断念。
  兵を退く。
   


158年1月
 第2次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により下大夫に昇進。
     


158年1月
 第6次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   


158年4月
 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
   


158年4月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


158年4月
 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


158年5月
 端氏の地を拠点とする方面軍は新たに瑯邪_義景中大夫が司令官に。
  


158年5月
 国内の瑯邪_義景に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


158年8月
 瑯邪_義軌中大夫指揮のもと鬱林_雍門国襄平城攻略戦に参加。
  


158年8月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄平城攻略は断念。
  兵を退く。
   


160年4月
 第3次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により中大夫に昇進。
     


160年8月
 第4次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  前衛を担い奮戦するが、敗戦。
   最後尾で殿を努める。
    


160年8月
 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
   


160年8月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


160年8月
 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


160年9月
 敵侵攻によって孤立した端氏の地において、
  暫定自治を始めた秦郡_去疾亮卿に従うことになる。
   


161年1月
 第2次平臺の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   平臺地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     


161年7月
 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
  


161年7月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


162年1月
 第5次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


162年4月
 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
  


162年4月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


162年5月
 国内の瑯邪_義祐に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


162年10月
 豫章_郭幹上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
  


162年10月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


163年5月
 濮陽_邯鄲周上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
  


164年9月
 合流先を失い、以後、秦郡_去疾亮公に従う。
  


好意を持つ武将

瑯邪_義景 享年 43歳 < 122〜 164 >
  侵攻軍戦友
秦郡_去疾亮 現在 44歳 秦郡_去疾国 公
  迎撃軍戦友
瑯邪_義祐 現在 21歳 秦郡_去疾国 下大夫
  迎撃軍戦友


好意を持たれている武将


秦郡_去疾亮 現在 44歳 秦郡_去疾国 公
  迎撃軍戦友
臨川_張玄 現在 27歳 代郡_丁国 士
  迎撃軍戦友
秦郡_去疾琅 現在 18歳 秦郡_去疾国 中大夫
  親の影響


敵視している武将


桂陽_劉睦 現在 60歳 国 邑宰
  国内の反目
瑯邪_義習 享年 54歳 < 107〜 160 >
  侵攻軍戦友
西河_董奉 現在 57歳 秦郡_去疾国 邑宰
  国内の反目


敵視されている武将


齊郡_盆成豁 現在 66歳 中山_學国 士
  迎撃軍敗戦による敵意 君主から敵参謀
中山_學潜 現在 50歳 中山_學国 公
  
呉郡_劉紀 現在 39歳 呉郡_將梁国 士