153年4月 東海_戚黄の嫡子として元服し瑯邪_義軍士を拝命。
153年5月 瑯邪_義紀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
153年6月 瑯邪_義紀公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
153年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
153年11月 瑯邪_義紀公指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
153年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
153年11月 弘農_周生淵公指揮の弘農_周生軍に春穀城を包囲される。
153年11月 度重なる弘農_周生軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
154年1月 瑯邪_義紀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年2月 瑯邪_義紀公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
154年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
154年5月 臨川_張玄士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
154年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
154年11月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
154年11月 第2次覇陵の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 齊郡_盆成領覇陵を制圧。
154年11月 秦郡_去疾亮士指揮のもと齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に参加。
154年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
155年8月 第2次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 中山_學領楡次を制圧。
155年11月 第3次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
155年12月 第3次春穀の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
155年12月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
156年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
156年2月 第4次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼騎を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
156年2月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
156年3月 弘農_周生淵上大夫指揮の中山_學軍に春穀城を包囲される。
156年3月 度重なる中山_學軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
156年4月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
156年7月 瑯邪_義習公指揮のもと中山_學国端氏城攻略戦に参加。
156年7月 端氏城を包囲戦の末、陥落させる。
156年11月 楚郡_黄先下大夫指揮のもと齊郡_盆成国便屏城攻略戦に参加。
156年11月 便屏城を包囲戦の末、陥落させる。
157年4月 中山_學潜公率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
157年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
157年4月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
157年8月 九江_・国沈陽城攻略戦に着手。
157年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、沈陽城攻略は断念。 兵を退く。
158年1月 第2次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
158年1月 第6次楡次の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
158年4月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
158年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年4月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年5月 端氏の地を拠点とする方面軍は新たに瑯邪_義景中大夫が司令官に。
158年5月 国内の瑯邪_義景に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
158年8月 瑯邪_義軌中大夫指揮のもと鬱林_雍門国襄平城攻略戦に参加。
158年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄平城攻略は断念。 兵を退く。
160年4月 第3次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
160年8月 第4次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
160年8月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
160年8月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年8月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
160年9月 敵侵攻によって孤立した端氏の地において、 暫定自治を始めた秦郡_去疾亮卿に従うことになる。
161年1月 第2次平臺の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 平臺地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
161年7月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
161年7月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年1月 第5次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
162年4月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年5月 国内の瑯邪_義祐に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
162年10月 豫章_郭幹上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年10月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年5月 濮陽_邯鄲周上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
164年9月 合流先を失い、以後、秦郡_去疾亮公に従う。
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