159年10月 瑯邪_義景の嫡子として元服し瑯邪_義軍下大夫を拝命。
159年10月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
159年11月 瑯邪_義習公の指示によって、地元の支持を得るべく沈陽の地への赴任が決まる。
159年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
160年2月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
160年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
160年3月 瑯邪_義習公指揮のもと鬱林_雍門国便屏城攻略戦に参加。
160年7月 第4次便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、伏兵による奇襲で敵を分断する等、活躍し、 勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領便屏を制圧。
160年7月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
160年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
160年8月 呉郡_將梁展宰相率いる中山_學軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である端氏城に立て籠もる。
160年8月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年8月 端氏城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
160年9月 敵侵攻によって孤立した端氏の地において、 暫定自治を始めた秦郡_去疾亮卿に従うことになる。
161年1月 第2次平臺の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 平臺地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
161年7月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
161年7月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年1月 第5次端氏の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
162年4月 呉郡_將梁展宰相指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年4月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年5月 国内の東海_戚暢に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
162年8月 秦郡_去疾亮公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
162年10月 豫章_郭幹上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
162年10月 度重なる中山_學軍の猛攻から 端氏城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
162年11月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
163年2月 秦郡_去疾亮公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
163年5月 濮陽_邯鄲周上士指揮の中山_學軍に端氏城を包囲される。
163年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
164年9月 合流先を失い、以後、秦郡_去疾亮公に従う。
|