100年1月 当時 44歳、巴郡_忌攸に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
101年4月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた漢中_棘穰に仕官する。 士を拝命。
104年5月 絳の地に赴任。
105年5月 絳の地に赴任。
105年6月 南郡_將軍国、南郡_將軍翹公の意思に賛同することを決意。
105年7月 東平_張統中大夫指揮の南郡_將軍軍に絳城を包囲される。
105年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
106年1月 南郡_將軍翹の支配する平城の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから鬱林_劉軍の人物関係をそれとなく理解する。
106年2月 南郡_將軍翹の支配する平城の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから鬱林_劉軍の人物関係をそれとなく理解する。
106年3月 南郡_將軍翹の支配する平城の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから鬱林_劉軍の人物関係をそれとなく理解する。
106年4月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、南郡_將軍軍に仕官する。 彼が 51歳の時であった。
106年7月 合浦_嬰亨宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
106年8月 合浦_嬰亨宰相の指示によって、地元の支持を得るべく雲中の地への赴任が決まる。
106年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
106年11月 昌黎_董畿士指揮のもと南郡_將軍軍国曲沃城攻略戦に参加。
107年3月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 中山_學舎卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年9月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年10月 第3次邯鄲の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年12月 敵侵攻によって孤立した曲沃の地において、 暫定自治を始めた廣陵_張咸卿に従うことになる。
108年3月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 合流先を失い、以後、廣陵_張咸公に従う。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
109年1月 廣平_梁伶卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である安邑城に立て籠もる。
109年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 安邑城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
109年11月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に絳城を包囲される。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年5月 風洪卿指揮の河上_廖軍に絳城を包囲される。
110年9月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
110年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年9月 蒲陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
111年2月 鉅野_魯国臨晋城攻略戦に着手。
111年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
111年2月 蒲陽城において病に伏せ逝去。 享年 55歳。
|