100年6月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 南郡_將軍翹の目に掛かり仕官。
100年8月 武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領武城を制圧。
100年9月 第2次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年12月 第3次晋陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年1月 薊西の攻防戦において、漢中_棘軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 漢中_棘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
101年6月 彭城_左史玄下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である太原城に立て籠もる。
101年6月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 太原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年6月 太原城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年8月 襄国の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年12月 河東_徐達中大夫指揮のもと漢中_輔国蒲陽城攻略戦に参加。
101年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 蒲陽城攻略は断念。 兵を退く。
102年5月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国平陽城攻略戦に参加。
102年9月 漢中_棘穰上大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
102年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年3月 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年6月 廣陵_張咸卿指揮のもと象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に参加。
103年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
103年11月 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領平陽を制圧。 功績により下大夫に昇進。
103年12月 代の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
104年9月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年3月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年7月 東平_張統中大夫指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
105年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
105年11月 第3次沮陽の戦いにおいて、汝南_鄭軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_鄭領沮陽を制圧。
106年2月 東平_張統中大夫指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。 功績により中大夫に昇進。
106年6月 東平_張統上大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
106年6月 城内への強行突入に成功、上党城を陥落させる。
106年7月 南郡_將軍国宰相の任に抜擢される。
106年7月 裏でかなり強引な人事工作を行っていたのが功を奏する。 同時に方面軍総司令官の任を解かれ、首邑に戻る。
106年11月 汝南_張国朝歌城攻略戦に着手。
107年3月 上谷_滕晞卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である曲沃城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年3月 曲沃城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年4月 曲沃の地を拠点とする方面軍は新たに廣陵_張咸卿が司令官に。
107年6月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
107年9月 合浦_嬰顕を養子に迎える。
107年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年12月 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
107年12月 公南郡_將軍翹に今後の忠誠を誓う。
108年1月 第4次邯鄲の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、敗戦。
108年1月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
108年1月 邯鄲城は包囲戦の末、陥落。
108年1月 河上_廖国に拠点邯鄲を制圧され、自らの命を絶った。 享年 57歳。
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