100年9月 地元の推薦もあり、鉅鹿の地で呉郡_董国、 邑宰に 39歳で就任。
100年9月 第2次鉅鹿の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 鉅鹿地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 42歳。
100年9月 公の命を受け、この地を訪れた豫章_李敞上大夫から公への忠誠の意を確認され、 賛同する。
101年3月 この地を訪れた新平_羅陽上士から桂陽_柏成繍卿への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
107年9月 河上_廖艷の支配する宛の地を訪れる。 子供たちの童謡などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年10月 河上_廖艷の支配する長沙の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年11月 鬱林_劉禮の支配する即墨の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年12月 陳留_盂祕の支配する筥の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、廣陵_張軍に仕官する。 彼が 48歳の時であった。
108年1月 廣陵_張咸公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
108年3月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
108年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 曲沃城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年3月 合流先を失い、以後、廣陵_張咸公に従う。
108年4月 朝歌の北東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
108年5月 廣陵_張咸公の指示によって、地元の支持を得るべく絳の地への赴任が決まる。
108年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
108年10月 河上_廖延卿指揮の河上_廖軍に曲沃城を包囲される。
109年1月 廣平_梁伶卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である安邑城に立て籠もる。
109年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 安邑城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
109年8月 絳の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
109年10月 曲沃の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
110年9月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
110年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年9月 蒲陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
111年1月 廣陵_張林中大夫指揮のもと河上_廖国宛城攻略戦に参加。
111年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
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