100年1月 当時 19歳、汝南_郭静に邑宰として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 陳の地に赴任。
100年9月 この地を訪れた樂安_張承上士から金城_浩卿への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
101年11月 君主汝南_郭静死亡。 悩んだ末、陽平_杜嵩邑宰の推薦で、金城_浩に従うことを決める。
102年11月 新興_西王j卿指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
102年11月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年5月 淮陽_陰參上大夫指揮の新城_公子軍に濮陽城を包囲される。
103年8月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年1月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
106年12月 河上_廖艷の支配する黔中の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年1月 南郡_將軍翹の支配する九原の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年2月 河上_廖艷の支配する郢の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年3月 河上_廖艷の支配するケの地を訪れる。 この地の知者との話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年4月 陳留_盂祕の支配する新鄭の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 27歳の時であった。
107年5月 剣閣の地を拠点とする、東郡_尹粛上士揮下の西部方面軍に配属。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり南郡_將軍軍士として登用される。
107年12月 絳の地を拠点とする、南郡_董默上大夫揮下の南部方面軍に配属。
107年12月 河上_廖国に拠点絳を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 27歳。
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