145年1月 当時 16歳、酒泉_ケ陵斐に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
147年11月 襄陽_王綏中大夫指揮の代郡_韓軍に中廬城を包囲される。
147年11月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 中廬城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
153年5月 母国が安平_張国に降伏、それに従い安平_張国の幕僚を拝命。
154年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
157年5月 中山_學潜の支配する樂陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年6月 代郡_韓休の支配する襄安の地を訪れる。 この地の知者との話などから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年7月 中山_學潜の支配する平阿の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから中山_學軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年8月 瑯邪_義習の支配する平臺の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから桂陽_劉軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年9月 廣漢_包度の支配する敬武の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから代郡_韓軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年10月 中山_學潜の支配する營道の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから代郡_韓軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年11月 西河_ケ湛の支配する樂信の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから中山_學軍の人物関係をそれとなく理解する。
157年12月 宕渠_合博覇の支配する乘氏の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから中山_學軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年1月 代郡_韓休の支配する水章の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから濟陰_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年2月 中山_學潜の支配する祁郷の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから西河_ケ軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年3月 代郡_丁擧の支配する臨平の地を訪れる。 この地の知者との話などから鬱林_雍門軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年4月 代郡_韓休の支配する南皮の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから瑯邪_義軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年5月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、瑯邪_義軍に仕官する。 彼が 30歳の時であった。
158年5月 濟北_杜滕士指揮の中山_學軍に春穀城を包囲される。
158年5月 度重なる中山_學軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年5月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
158年5月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
158年7月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
158年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
158年8月 瑯邪_義軌中大夫指揮のもと鬱林_雍門国襄平城攻略戦に参加。
158年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄平城攻略は断念。 兵を退く。
158年8月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
158年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
158年9月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
158年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
158年11月 第2次沈陽の戦いにおいて、九江_・軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 九江_・領沈陽を制圧。 功績により上士に昇進。
158年11月 瑯邪_義軌中大夫指揮のもと九江_・国沈陽城攻略戦に参加。
158年11月 城内への強行突入に成功、沈陽城を陥落させる。
159年3月 第2次便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 前衛を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
159年3月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
159年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
159年6月 第4次春穀の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、敵側面への攻撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
159年6月 瑯邪_義習公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
159年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
159年9月 瑯邪_義習公指揮のもと鬱林_雍門国便屏城攻略戦に参加。
160年1月 第3次便屏の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、一時は伏兵による奇襲で敵を混乱させたが、 戦局は変えられず、敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 31歳。
|