145年1月 当時 57歳、江夏_頓則に上士として仕える。 奸臣であったと言われる。
145年3月 代郡_丁楷下大夫指揮のもと東陽_杜国蒲吾城攻略戦に参加。
145年3月 蒲吾城を包囲戦の末、陥落させる。
145年6月 江夏_頓則公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年7月 江夏_頓則公の指示によって、地元の支持を得るべく楡次の地への赴任が決まる。
145年12月 君主江夏_頓則の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
146年1月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく便屏の地への赴任が決まる。
146年4月 便屏の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
146年5月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく平阿の地への赴任が決まる。
146年10月 平阿の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
146年11月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく祁郷の地への赴任が決まる。
147年5月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、祁郷の地をあとにする。
147年7月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく祝其の地への赴任が決まる。
147年10月 祝其の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
147年11月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく武功の地への赴任が決まる。
148年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
148年4月 江夏_頓武公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年5月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく成武の地への赴任が決まる。
148年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
148年7月 平棘の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 平棘地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
148年7月 江夏_頓武公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
148年9月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく成武の地への赴任が決まる。
148年12月 成武の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
149年1月 江夏_頓武公の指示によって、地元の支持を得るべく平樂の地への赴任が決まる。
149年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
149年3月 上谷_程嘉下大夫指揮の隴西_樊軍に武功城を包囲される。
149年7月 魏郡_羽式上大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である祁郷城に立て籠もる。
149年8月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 祁郷城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年8月 祁郷城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年1月 第3次平棘の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 東陽_杜領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
150年5月 敵侵攻によって孤立した祁郷の地で暫定自治を始める。
150年12月 無事、領土を守り、江夏_頓武公に合流。
152年4月 国内の秦郡_去疾亮に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
152年5月 平樂の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年5月 君主江夏_頓武死亡。 任地であった春穀の地で旗揚げをする。
152年7月 瑯邪_義習を養子に迎える。
153年3月 配下の臨川_張廣の忠誠を得る。
153年5月 沈陽の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
153年11月 齊郡_盆成国覇陵城攻略戦に着手。
153年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
153年11月 弘農_周生淵公指揮の弘農_周生軍に春穀城を包囲される。
153年11月 度重なる弘農_周生軍の猛攻から 春穀城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
154年12月 春穀城において病に伏せ逝去。 享年 67歳。
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