145年1月 当時 32歳、河内_李純に邑宰として仕える。 出世に無欲であったと言われる。
145年9月 襄陽_王綏下大夫指揮の代郡_韓軍に襄非城を包囲される。
149年10月 濟南_茅夷奉下大夫指揮の濟南_茅夷軍に昌陽城を包囲される。
150年5月 王河内_李純死亡。 仕える国を無くし放浪する。
151年11月 江夏_頓武の支配する武功の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから酒泉_ケ陵軍の人物関係をそれとなく理解する。
151年12月 齊郡_盆成豁の支配する覇陵の地を訪れる。 この地の知者との話などから酒泉_ケ陵軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年1月 東陽_杜勝の支配する武城の地を訪れる。 この地の知者との話などから東陽_杜軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年2月 安豐_宋ェの支配する聞喜の地を訪れる。 住民との会話などから酒泉_ケ陵軍の人物関係をそれとなく理解する。
152年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、江夏_頓軍に仕官する。 彼が 39歳の時であった。
152年5月 平樂の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
152年5月 君主江夏_頓武死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、瑯邪_義紀に従うことを決める。
152年11月 瑯邪_義紀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
152年12月 瑯邪_義紀公の指示によって、地元の支持を得るべく便屏の地への赴任が決まる。
152年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
153年4月 息子の東海_戚暢が元服し瑯邪_義軍士を拝命。
153年5月 沈陽の戦いにおいて、齊郡_盆成軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 齊郡_盆成領沈陽を制圧。
153年8月 平臺の戦いにおいて、弘農_周生軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 弘農_周生領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり弘農_周生軍士として登用される。
153年11月 弘農_周生淵公指揮のもと瑯邪_義国春穀城攻略戦に参加。
153年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 春穀城攻略は断念。 兵を退く。
154年9月 君主安平_張興死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、中山_學舎に従うことを決める。
159年3月 成武城において病に伏せ逝去。 享年 47歳。
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