101年3月 東平_張統の嫡子として元服し南郡_將軍軍上士を拝命。
101年6月 彭城_左史玄下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である太原城に立て籠もる。
101年6月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 太原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年6月 太原城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年8月 襄国の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年12月 河東_徐達中大夫指揮のもと漢中_輔国蒲陽城攻略戦に参加。
102年9月 漢中_棘穰上大夫率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
102年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年3月 楼煩の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく象郡_賀軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年6月 廣陵_張咸卿指揮のもと象郡_賀国鉅鹿城攻略戦に参加。
103年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
103年11月 第2次平陽の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領平陽を制圧。
104年2月 廣陵_張咸卿指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
104年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
104年9月 彭城_左史玄卿率いる象郡_賀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
104年9月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年9月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年3月 汝南_鄭援卿率いる象郡_賀軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である代城に立て籠もる。
105年3月 度重なる象郡_賀軍の猛攻から 代城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 代城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年7月 父である東平_張統中大夫指揮のもと漢中_輔国絳城攻略戦に参加。
105年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、絳城攻略は断念。 兵を退く。
105年11月 第3次沮陽の戦いにおいて、汝南_鄭軍と対戦。 父に随軍する形で左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_鄭領沮陽を制圧。
106年2月 父である東平_張統中大夫指揮のもと汝南_鄭国薊城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、薊城攻略は断念。 兵を退く。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。
106年6月 父である東平_張統上大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
106年6月 城内への強行突入に成功、上党城を陥落させる。
106年9月 昌黎_董畿士指揮のもと南郡_將軍軍国濮陽城攻略戦に参加。
106年11月 合浦_嬰亨宰相指揮のもと汝南_張国朝歌城攻略戦に参加。
107年3月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年3月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年6月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
107年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
107年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年12月 第4次上党の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 父に随軍する形で前衛を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、 味方の助けもあり勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 22歳。
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