148年1月 鴈門_叔孫俊の嫡子として元服し鴈門_叔孫軍卿を拝命。
148年2月 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 襄安城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年2月 河内_李国襄非城攻略戦に着手。
149年6月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
149年6月 襄非森の攻防戦において、河内_李軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 河内_李領襄非を制圧。
149年7月 第2次襄非の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 襄非地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
149年7月 襄安の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 父に随軍する形で前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
149年10月 第2次襄安の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。
149年10月 渭南_解國下大夫指揮の代郡_韓軍に襄安城を包囲される。
149年10月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 襄安城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年7月 樂安_穰武上大夫指揮のもと東陽_杜国吾豐城攻略戦に参加。
151年1月 馮翊_陸徽上大夫率いる東陽_杜軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である安悳城に立て籠もる。
151年1月 東陽_杜軍の猛攻を防ぎきれず、安悳城は落城する。
151年1月 東陽_杜国に安悳を制圧され降伏。
151年9月 汲郡_不弟宇宰相指揮のもと鬱林_雍門国櫟陽城攻略戦に参加。
151年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、櫟陽城攻略は断念。 兵を退く。
152年4月 宣城_扶袤宰相指揮のもと代郡_韓国合肥城攻略戦に参加。
152年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、合肥城攻略は断念。 兵を退く。
152年8月 青蛉の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領青蛉を制圧。
152年8月 宣城_扶袤宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
152年10月 宣城_扶袤宰相の指示によって、地元の支持を得るべく青蛉の地への赴任が決まる。
152年10月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
152年12月 第5次櫟陽の戦いにおいて、齊郡_北宮軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 齊郡_北宮領櫟陽を制圧。
152年12月 東陽_杜鮑卿指揮のもと齊郡_北宮国櫟陽城攻略戦に参加。
152年12月 城内への強行突入に成功、櫟陽城を陥落させる。
153年2月 宣城_扶袤宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
153年3月 宣城_扶袤宰相の指示によって、地元の支持を得るべく陰平の地への赴任が決まる。
153年8月 長沙_紀泰公率いる長沙_紀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である祝其城に立て籠もる。
153年8月 度重なる長沙_紀軍の猛攻から 祝其城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
154年4月 建平_牛徽士率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高柴城に立て籠もる。
154年8月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、代郡_韓軍は撤退。
154年8月 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
154年8月 高柴平原の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく代郡_韓軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
154年9月 白馬南の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく安平_張軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 22歳。
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