100年1月 当時 37歳、巴郡_忌攸に邑宰として仕える。 家督をついで優遇であったと言われる。
101年4月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた漢中_棘穰に仕官する。 士を拝命。
105年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
107年8月 河上_廖艷の支配する黔中の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年9月 河上_廖艷の支配する雍の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年10月 尋陽_勒耀の支配する蒲陽の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年11月 尋陽_勒耀の支配する蒲陽の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年12月 陳留_盂祕の支配する秣陵の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年1月 鬱林_劉禮の支配する即墨の地を訪れる。 この地の知者との話などから南郡_將軍軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年2月 南郡_將軍翹の支配する雲中の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから臨海_馬軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 46歳の時であった。
108年3月 琅邪の地を拠点とする、新野_堪囘卿揮下の北東部方面軍に配属。
108年5月 淮陽_陰參卿指揮のもと代郡_慶忌国黄城攻略戦に参加。
108年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、黄城攻略は断念。 兵を退く。
108年6月 方城の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
108年8月 隴西_季老混宰相指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 指示により伏兵部隊を担い、伏兵による奇襲で敵を分断する等、活躍し、 戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 武キ_懸潘領函谷関を制圧。
108年12月 隴西_季老混宰相指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
109年2月 函谷関城を包囲戦の末、陥落させる。
109年4月 国内の河東_司徒岐に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年5月 賛同する河東_司徒岐下大夫のはからいにより、 琅邪の地を拠点とする新野_堪囘卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
109年7月 蒲陽平原の攻防戦において、河上_廖軍援軍として廣陵_張軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により上士に昇進。
109年8月 城陽の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。
110年4月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国蒲陽城攻略戦に参加。
110年8月 第2次蒲陽の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 廣陵_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 48歳。
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